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ニーチェの言う「健康」とは?


※使っている画像とは裏腹に「なんじゃこりゃぁ!」と思うかもしれませんが、この文章を読んで色々考えてくれるとありがたいことこの上ないです。

いつもの大学一年生のよくわからん推察です。

『反哲学入門』を読み直している時に、あることに気づいた。

ニーチェが、ソクラテス以降の時代に健康さを失わせたという趣旨の文章を見つけたのだ。

この時、最近読んだニーチェの「道徳の系譜学」という本の内容を思い出した。

ニーチェは、現代人を表現するのに「病人」や「罪人」という一言を使っていた。(まぁ翻訳だけれども)

偶然にも「道徳の系譜学」を読んでいたおかげで

『反哲学入門』の文章と、『道徳の系譜学』の文章をどちらともその趣旨を理解することができた。

しかし、ここで疑問が残るんだなぁ~これが!

ニーチェのいう「健康さ」とは一体なんだ?というものだ。私が理解したのは、あくまでも文章上の語句の一致みたいなもの、英語の文章のその翻訳をなでたことと同じこと。

つまり、健康さの消失と現代の病人とは、つまりどういうことか?という問題が解決していない。

今回は、このことについて考えていくよい。


(もしかしたら、もうすでに誰かが私よりももっと機知に溢れた、素晴らしいものを考えているかもしれないが・・・)


ソクラテス

では、健康さが失われる時代の前の、転換期に存在したソクラテスという人物の時代背景はどのようなものであったかを見ていこう

ソクラテスとは、言わずと知れた哲学の祖だ。

世界史の知識は相当抜け落ちているので、簡単に書いていく。

彼は、ペロポネソス戦争に三回ほど従軍した経験がある人物。アルキビアデースという、後に色々やらかしてくれる恋人がいたことがある(ちなみにアルキビアデースは男)。

前399年の裁判では、別の神を信奉した、ダイモーンという鬼神を信じた、青年に害を与えた、という三つの罪で訴えられる。

そして・・・。

という感じだよ。


古代特有の徳

では、古代における徳とは、どういうものだったか?

それは今のような、「誠実・我慢・思いやり」のようなものでは決してなかった。

むしろ、高貴な者、支配者側から見たものとしての「徳」であった。つまり極めて能動的なのだ!。

何者をも恐れぬ豪快さ!!、神さえもあきれてしまうが、どこか愛嬌のある勢い、自信、自分より下の身分の者に対する寛容さ、そういったものが「徳」とされていた。

被支配者に対する憎悪などはあまりなかったんだねぇ。


ソクラテスという人物

ここで引用をしよう

この人はなに一つ新しいものをもち出そうとはせず、ひたすら否定に終始したのです。〔中略〕あれもこれも一切合財否定し、さてそれでは知への憧れとはなにかを考えてみても、正体がつかめません。(木田元、2010、84)

この引用文からわかることは、ソクラテスはただ否定しつづけたということです。

それがかつて人々が持ち合わせていた「健康さ」を消失させたのです。

先ほど、古代での「徳」について書いたと思います。

非常に能動的で、被支配者層が抱くようなルサンチマン的なものではありません。動物としての人間という側面さえも、私には強く感じられます。「殺し、引きずり回し、奪い、喰らう」。豪快でありながら、清々しいほどの行動。まさに能動的な者から見た「徳」や「善」です。

(奴隷など、弱い立場の意見は考慮しません。)


ソクラテス以降の時代に失われたのは、このような豪快さではないでしょうか?と思ってみたり。

ソクラテスが全てを疑うという態度を持つことによって、設置された超自然的原理という舞台。その舞台で、後にプラトンやアリストテレスが舞うことになるんです。

ソクラテスやプラトンによって、確立した「である」という態度・思想を否定し、「する」「つくる」という考えが、「である」から独立し、そして「である」を乗り越えてしまう。なんと!?

「である」という状態、つまり支配者層の「徳」が保たれていたものが、それ自体を疑う態度で、揺らぐ。被支配者側が「する」というものに気づき始め、「徳」の転換が起こったのではないでしょうか。


永遠の二番手と化した人間


ソクラテス以降の時代は、「人間が主人公ではなくなった」という表現が当てはまる気がします。

自分の思うがままに振る舞った支配者層たちは、神さえも驚かせるような世界の主人公。

世界という空間に「ある」、主人公であり、何かを「する」ことによって存在が確立しているわけではない。呱々の声を上げたときから、すでに主人公で「あった」のだと思います。

しかし、繰り返しますが

「ある」を疑う態度によって、存在の根底が確信できるものでなくなった。

挙句の果てには、「真理」や「純粋形相」や「イデア」や「神」のような、自分以外の主人公の如きものが現れた。

それが現れたことによって、主人公のはずだった人間さえも「ある」者ではなく、「造られる」物に落ちぶれた・・・。

ここで、永遠の二番手になってしまったのではないだろうか?

つまりルイージと・・・なってしまったのではないかと思うんですよえぇ。

言いけぇると・・・

ここで「健康さ」を失ってしまったのではないだろうか?


健康とは


いよいよ見えてきた気がする。

私が思うに、「健康さ」とは「人間の本能に由来する純粋さ」なのではないだろうか。

自然を被造物と考えた、超自然的思考様式は、実は人間さえも被造物へと変化させた。

理性(西洋哲学)を持ち合わせているはずの人間こそが、この世界におけるオートマタ。人形。俳優。マリオネット。

神を楽しませるための、演技に徹する有象無象。


そして人間が、人間であることを嘆き始めてしまう。


彼らを病人と言わずしてなんと表現できようか!



今日も大学生はくだらないことに糖分を充てる。


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引用文献

木田元. (2010). 反哲学入門. 新潮社


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