「キャッチボール」を考える

「キャッチボール」という言葉が、何故か気になった。それがなんとなく素敵な言葉に思えたからだ。

「キャッチボール」をしよう。

誰かがそう言い出したのかは分からないが、少なからぬ人が使ったことのある言葉であるとも惟う。「キャッチボールをする」という言葉が、ある意味では不思議だ。

というのも、「キャッチボール」という行動には、必ずボールを投げるという行動が含まれているのであって、純粋に「ボール」を「キャッチ」するわけではないからだ。「キャッチボール」は、「投げる」という行動がまず先にあって、次に「受け取る」という行為が生じるのだ。投げなければ、取ることは出来ない。

キャッチボールは、「ホールドボール」ではない。「グラッブボール」でもない。「キャッチボール」なのだ。それは、投げるという行動を前提とした行動であり、言葉なのだ。この言葉は、素敵だ。この言葉を使うと云う事は、おおよその場合、「投げ」てくれる相手がいるということだ。だから「キャッチ」出来るのだ。

会話のキャッチボールという言葉がある。(或いは言葉のキャッチボールだろうか。)言葉には、「キャッチ」という一方の人の動作しか現れないが、「会話のキャッチボール」という文言には、不思議と「関係」というか、「相互性」のようなものが感じられる。

「会話のキャッチボール」という言葉は、人間の言葉の行いの本質を表していると私はなんとなく感じた。「キャッチ」という言葉からは、投げられたボールへの意識、注目、集中という人間の志向性が思い浮かぶ。それと同じように、「会話のキャッチボール」においても、「言葉」への意識、注目、集中というものがうかがえる。

ここで「現象学は〈思考の原理〉である。」という竹田青嗣さんが著した(結構お世話になっている)本から、言語の本質的な機能について引用したいと惟う。

聞き手が、発語された「言語A」を介して、つねに発語者の「言わんとすること」をめがけ(志向し)、その確信が成立することで言語行為がそのつど成立する。これが言語の「信憑構造」の本質的な図式です。(竹田青嗣、2004、145)

「言葉或いは会話のキャッチボール」という表現は、まさにこの言語の「信憑構造」の本質的な図式(竹田青嗣、2004)を示唆しているのではないかと思う。言葉というボール(対象)に集中する。それめがけて、意識を動かす。「会話のキャッチボール」という言葉で、そのまま「キャッチボール」という名詞が使われているのは、会話において、意味を志向するということに、意味を捉えようとする人間の能動性に、大きな意味があるからではないだろうか。

その「キャッチボール」の「キャッチ」は、人間のやり取りを成立させる、意味への志向性を暗喩しているのでは・・・と考えてみたり。

その意味で、「キャッチボール」という遊びというか、行為というのは、案外さ、人間の言語活動、ひいては人間のコミュニケーション活動の本質的な図式なのではとなんとなく感じるのです。「キャッチボール」こそ、ある意味では非常に人間らしさの表れ・・・なんて言ってみたり。

なんか、日常に溢れているものから、本質的(であろう)なものに帰納(一般化)して考えるノッテ、楽しい。




今日も大学生は惟っている。


引用文献

竹田青嗣.2004.現象学は〈思考の原理〉である.ちくま新書

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