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ポッチャマとエンペルトって、違うじゃん

ポケットモンスターのダイヤモンドとパール(通称ダイパ)が、「ブリリアントダイアモンド」と「シャイニングパール」としてリメイクされるという知らせに浮かれていた。アルセウスがメインであるポケモンシリーズも発売されるらしいから、6年ぶりくらいに本格的にゲームを買おうか悩んでる今日日。でも、ゲーム得意じゃないし、時間持ってかれそうだから、結局買わないかもしれないね。

選んだ最初のポケモンはナエトル。ヒコザルは友達から卵で貰うことが出来て、ポッチャマは持っていなかった。ポケモンの進化は進化じゃなくて、「変態」だよという旨の情報をどこかで見たような気がしたが、まぁ成長の一種としておこう。あ、ポケットモンスターダイヤモンドパールが放送されていた時に、ヒロインのヒカリと一緒にいたポッチャマが、ポッタイシに進化することを拒んでいるという描写を思い出した。もう十何年も前かあれは。ポケモンも、変化には怖さを感じるのだろうか。

ポッチャマがポッタイシ、エンペルトと進化するように、人間もまた大きな変化をする(変化してなんぼか)。あの頃の自分(まるでポッチャマのようなちんちくりん)が、今のワタシとは全くの別人であるということは、言うまでもないだろう。あの頃の自分は、多分死んだのだ。この意味で、死は変化だ。変わったね、とそう言われたのは中学生くらいが最後。それ以降は、あまり変わったなとは言われていないような。いや、言われたっけか・・・。でもどれが本当の自分かと言われれば、どれも本当の自分だし、同時にどれか一つが本当の自分じゃない。本来の白い歯へ、なんていうけれど、生れたばかりの姿がどうして人間の本来の姿だって、言い切れるのか。今こうやって全力で生きているのも、本来の姿だろうよ。

人間とは何か。いや、自己とは、自分自身の本当の正体とは何か。今日インターンをしてそんなことを考えている場合ではない時に、ずっとそんなことを考えていた。一つ。ポッと出てきたのは、人間の本当の姿、正体は、「死」に似ているということだ。人間は死ぬことが出来ない。自分自身が死んだと認識することが出来ない。他者も、他者の「死」をそのまま体験することが出来ない。「死」は、どこまでもヴェールに包まれている。

死ぬことを経験するためには、初めから模擬的に経験することが不可欠である。それゆえ、模擬的ーその意味で、虚構的ーな仕方で〈死ぬこと〉を生きることは、死の経験にとって、本来的で、根源的なものである。〔中略〕死ぬこと(すなわち死に近づいてゆくこと)という出来事の経験は、不可避的に、どうしても模擬的に生きるほかない部分を含んでおり、それに応じて〈反復することから始まる〉側面を必ず秘めている。(湯浅博雄、2020、190)

死は、どこまでも虚構的。だって、さっきから書いているけれど人間は自分が死んだということを明確に意識することが出来ないのだから。ただ何かが消えただけなのだから。だから、最初から(本当の意味での最初ではない最初)真似しなければならない。或いは疑似的なものしか体験できない。「自分自身の本当の正体」も、これと似ている気がする。これはその人の特徴とかではない。その人自身の本当の本当に姿は、「死」的なのだ。どこかにあると思っている間限定だけかもしれないが、完全に「自分自身の本当の正体」になることがあり得ない以上、人間は常に模擬的存在でしかない。

また本当に自分というものが居ないと考えていたとしても、何かになるにはまず何かを模倣するということからまず始めなければならない(母国語とかね)。本当の、誰もが納得する真理のような、超越論的な、イデアのような、純粋形相のような、「自分」なんてどこにもいない。むしろ、いてたまるものかとさえ思う。なぜそのような枠に縛られなきゃいけないのだろう。人間はどこへ行ってしまうのか。ゴーギャンがそんなことを言っていたような気がしたが、それは人間がどこにもたどり着くことも出来ないアイマイで、頼りない存在の証左ではないのだろうか。

何者にもならずに。死んでしまったら、それは本当に死ねたのかも分からない。何事も終えずに。何事も作らずに。何事もせずに。中途半端。どこで始まるか、終わるのか。自分は何者か。自分はどんな存在か。答えのないことにいつまでも固執している。だがその何が悪い? 答えがないから、探さないのか。この世に真の答えなんて、一つもないのよ。大学で嫌というほどそれを学んだし、実践の場でも感じてきた。答えなどない。本当の自分などない。あるのは・・・なんだろうね。神という無じゃない?静寂主義者じゃないけど。

人間には何もないのよ。もしかしたら、生物か。でも何も無いからこそ、変化できるんでしょう。中身が空っぽだから、ワタシは変われる。柔軟になる。トッポさんは中までチョコたっぷりで、ワタシは空っぽだけど、トッポはトッポのまま。だが、ワタシはまたワタシを殺して、また別のワタシになることができる。そうやって、身近な死や、絶望や、災害や、幸福を受け入れて、生きて逝くのでしょう。ワタシは何もんでもない。これは、人間は常に可能性に晒されているということである。まぁ何か名がついた時は、社会的な地位や名誉だろうか。でも、それはイコールワタシじゃないね。多分。





今日も大学生は惟っている


引用文献

湯浅博雄.2020.贈与の系譜学.講談社選書メチェ

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