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思考を「手づくり」すること

コンプラポリコレが流行っていますね。

流行っているという表現は不適切かと思いますが、あえて流行っていると言いたい。多様性然り、SDGs然り。LGBT然りって感じです。で、まあ、然りなので悪いことではなく、良いことだと思っています。

そして当然取り組んでいくべきことだとも思いますが、一つ違和感を覚えるのは「みんなが同時多発的に思うことではないのでは?」ということです。もっと具体的に言うと「誰かに言われて取り組み始めることではないのでは?」ということです。

まあ無論、活動のきっかけに外的要因は不可欠というか、煽られることで気づきを得て、学び、行動に移すということは必要です。必要というか、必然です。人間ですし、「模倣」というのはコミュニケーション的側面を持つ、重要なアクションです。が、なので、これはやっぱり「流行」ですよね。みんながやっているからやる、です。


何度も言いますが、これはやるべきことだと思います。「流行」なんてクソ食らえだ!ではなく、流行すべきことだったし、流行しているのはいい機会なので、せっかくなので皆さんやりましょう、です。

書いているとおりですが「違和感」です。誰かに言われる前に取り組み始めるべきことだったのではないか?ということを、各々が自分の心で思っておくべきだよなあ、くらいの気持ちです。まるでLGBTが新しく湧いてきた常識かのように語らったり、SDGsが企業間での取引に影響するからという契機で取り組んだり(もしくはエンドユーザからの評価を獲得したいがために取り組んだり)。

はるか昔から、人間が起こった時点からあったはずの考え方に今更気づいた、それも誰かに言われて気づいた程度の各々が、明確な境目に意識もせず、その割れ目の向こう側へ当たり前のように歩いていくことが、私には不思議で仕方がないのです。


恥ずかしながら私はLGBTについて全く知見がありません。私自身が何なのかも知りません。なんというか、言葉にしなくてはいけない苦しみの中に居なかったことだけは分かっていて、わざわざ言葉にしなくてはいけないくらいに苦しんでいる人たちがたくさん存在するということを知った時に愕然としました。自分がどれだけ運がいいのかということを何度も考えました。

SDGsも同じです。キレイにまとめ上げてカラフルにして、実体として何が問題で改善すべきことなのかをポップに仕立て上げようとしていることが丸わかりというか、まさに流行にしようという空気を強く強く感じる風潮でそれはさすがに苦手です。

今読んでいる「分解の哲学/藤原辰史」の中で、SDGsについて語った、非常に深い洞察を伴う一節が出てきます。表現も含めてかなりグッとくるので紹介させてください。(引用者にて一部改行、強調表示有)

「環境」や「エコロジー」という言葉はしばしば、そこにはらまれる危険性を解毒されたうえで、お守りのようにさまざまな議論や文書の結論に用いられる。どれもがどこか遠くからシステムが順調に動いていることを確認するような見方で、具体性に乏しく、言葉を尽くして説明していない。神の摂理のように当たり前の現象として循環を捉えるような「高みの見物」ばかりでは、「循環」を「サステイナブル」という国連用語および「企業の社会的責任」的用語と一体化させ、その政治・経済言説空間での王座の地位を強固にさせるだけである。
そうではなく、どのような作用が循環の前提となっているのか、そもそも循環やサステイナブルと呼ばれている現象は、そんなツルツルでピカピカの現象ではなく、荒々しく、つぎはぎだらけで、皮がむけ、中身が飛び出し、過酷で、賑やかで、臭気が充満する現象であり、グロテスクの極みのようなものであるとともに、微生物や昆虫などの小さな分解者たちによって、人知れず、頑なに、いそいそと担われる健気さのエッセンスのようなものである。

SDGsと単語ひとくくりにしてしまうことは、いわば臭いものに蓋をしている形であり、そこに実体はありません。表現を統一化することは、一般人に対する浸透のし易さを高める効果があるため、失礼な表現をすれば「馬鹿にも分かるように」という効果があるわけです。

浸透しやすさと同時に思考停止を促進させられている。というか、思考停止してでも分かるくらいに浸透してくれないとまずいよね、と、そう思っているからこそのこういう流行なのですが、それでふんふんと満足してしまっていては、この程度のことに違和感を抱くこともできないようでは思考力は低下し、インターネットの言説を信じ、流行のままに生きることになってしまいます。

できあがったものを取り込み、何も生み出さない。考えないから。
分解者ですら排泄くらいはするのに。


思考のススメです。


たとえばネットニュースというものについて広げてみたいと思います。

ヤフーニュースやGoogleニュースフィードといったインターネット(検索エンジン)の巨人たちは、インターネット上に転がっているあらゆるネットニュースを、自分たちのプラットフォームから提供し、そこに閉じた形でニュースを読めるように建付けています。

また、グノシーやスマートニュースといった巨大なニュースプラットフォームでも、そのアプリの外へ出ることなく、あらゆるニュース情報を獲得することができるようになっています。

これらのサービスは非常に便利で、私もかなり使わせていただいているのですが、サーバー側からのサジェストは、クライアント側の思考停止を促進します。

要は提供されるニュースを鵜呑みにすべきでないということなのですが、ここで言いたいのは「鵜呑みにすべきではない」という、いわばニュースの読み方の話ではなく、もっと根っこのほうの話です。
この「サジェストを受け取る」というのは、何もニュースサイトだけの話ではないからです。

検索エンジンを当たり前のように使用する各位は、上のほうに表示されるWebページが、Googleの至極まっとうでオープンで平等なアルゴリズムに基づいていると思っているでしょうか?
それとも、Googleが金銭的な理由で優先的に表示したい結果があったり、何らかの思想に基づいて表示すべきものと表示すべきでないものをコントロールしていると思っているでしょうか?

金銭的な理由は知りませんが、Googleは実に様々な理由で検索エンジンの検索結果にフィルタをかけています。たとえば犯罪を助長するようなWebサイトはそもそも検索でヒットしませんし(ドメイン名やWebページ内の情報をスクレイピングすれば、該当するしないはAIが判断できます。いわゆる「ダークウェブ」の氷山の一角ですね)、何らかの差別的意図をもった検索行為は、その検索者の意図に沿う結果にならないようになっています。

これらのフィルタは、プラットフォームを提供する立場としては至極当然の、やるべき行いです。なので問題なし、でしょうか?気にせず使用し続けてOK、でしょうか?

これは非常にグレーです。Googleのやっていることは基本的に正しい(はず)ですが、同時に我々が閲覧できる情報はGoogleに管理されているということにもつながります。いや、閲覧できる情報ならまだいいんです、FQDNを知って探すことはできますから。真の問題は、閲覧したい情報をGoogleに管理されているということにほかならないと、私はそう思います。

つまり「見たい」という欲求そのものを、Googleをはじめとするプラットフォーマーに握られている、コントロールされている部分があるということを自覚すべきだということです。

うっかり興味を持って閲覧してしまった、芸能人の不倫を意味不明な理屈で失礼極まりない個人情報もあったものでない形で書かれた記事。それをきっかけにGoogleは、滞在時間や類似記事のクリック回数等を総合して、まるであなたがその記事に興味を持っているかのように、芸能人の不倫に興味のあるユーザかのように捉えます。

ここで何も考えずに提示されるニュースを粛々と読み続けていれば、ますますその傾向は増し、ひいては本当に芸能人の不倫に詳しくなってしまうかもしれません。芸能人の不倫ならまだ(どうでも)いいですが、政治に関してのニュースだったら?隣国や他国の不愉快なニュースだったら?Googleがそうしようとしているわけでは無いのにもかかわらず、そのプラットフォームの上に、各位それぞれの「思想ですらなかった”何か”」を巨大化させる、個々に寄り添ったプロパガンダかのような側面を見ることができます。


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一旦、冒頭で私がうだうだと書いていたことを振り返ります。

そして当然取り組んでいくべきことだとも思いますが、一つ違和感を覚えるのは「みんなが同時多発的に思うことではないのでは?」ということです。もっと具体的に言うと「誰かに言われて取り組み始めることではないのでは?」ということです。

世間の流行によって、インターネットの言説によって、プラットフォーム上に用意された個々のためのプロパガンダによって、思考というものは勝手にデザインされ、常にサジェストされ続けます。サジェストに留まらず、強制されたりすることもあります。

ここから逃れるためには、これらの構造に目を向けられるようになる必要があります。

なぜ世間はこのようなことを言い出したのか?このインターネットニュースはどのような人たちが書いているのか?なぜ私のニュースフィードには芸能人のニュースが多いのか?

一度立ち止まって、その表面においてある情報を眺めるのではなく、その裏側を、その言葉を書いたのがただの下らない他人であることをよく思い出すことで、情報の真偽を検証するための足掛かりに繋がります。

正しいけれど表現が非常に攻撃的だとか、誤っているけれどこのエビデンスだけは正しいとか、記事は論理的だけどソースが怪しいとか、そういう情報の事実と併せて、
「環境問題が政治利用されているからSDGsが流行っているんだな」とか「この記者は去年に全く逆の内容の記事を書いている様子なので、一貫していないな」とか「3日前に興味もない芸能人のニュースサイトを開いてしまったな」などと考えてみることができるようになります。

多分。(※上記は適当です)



思考を手づくりすることです。

自分はなんでこういうことを考えているんだろうなとか、他人はどういう生活があってこういうことを考えるに至ったんだろうなとか、家族は何を考えているんだろうなとか、不倫した人を叩くということはその人に不倫しないでほしかったと思っているということなんだと思うけれど不倫という行為の倫理的取扱いなんて至極あいまいで国内だと一夫一妻なので法的にNGじみているけれど万が一パートナーが不倫してほしいと思っているとしたらどうなんだろうなとかそんなこと他人には分からないのによく勝手に批判できるなとか、SDGsってどう考えても昔から環境問題とか沢山騒がれていたのにも関わらずキーワードで言われてから突然流行しだしたよな企業間での取引とかにも使われるようになったということは企業たちがSDGsに取り組むことができるような時間的金銭的余裕ができたということにもなるし高度経済成長期にはすべて犠牲にしてきていただろうのにそれを終えたら突然中国のような極端に環境破壊を繰り返す国に強気に出始めるんだよな世界中の国はどこも同じかとか、そういえばSDGsって言われ始めてから温暖化って言わなくなったな異常気象っていう表現になったな実際問題何がどの程度駄目なのかって全然具体的な情報が目につかないけれど実は報道規制かけられてるのかなそれとも視聴者が結局興味ないからなのかなとか、

こういうことを私は一生考えていて、これからも考え続けるんですが、正しさとかソースとかは関係なくて、もちろんインターネットやGoogleから教えてもらった情報をたくさん取り込みながら、でもそれをそのまま自分の持っている情報として取り扱うことは絶対に無くて、なぜなら思考のうねりはそんな矮小なもので停止するようにはできていないので、うねりに情報が一部引き込まれて巻き込まれて潰れ、ぐちゃぐちゃになって、そのうねりの一端を担ったり、捨てられたりします。

この「うねり」が私の思考であり、手づくりしたもので、脳が止まるまで動き続けるもので、私の宝物で、私そのものです。

そう言えるくらいに積上げてきたものが、きっと皆さんの頭の中にもあるはずなのですが、あまりそれに自信が無くて、まるで教わったことがすべて真実かのように捉えてしまったりする、ついうっかり他人たちが適当に吐き捨てた言説、インターネットに落ちている文字列の塊を見て、そっちのほうが素敵に見えたり、さも「善い」思想に見えたりしてしまって、乗り換えてしまうのだけれど、本当はそんなものはゴミで、ゴミの量が多いだけで、一貫性もなく、信念もない、思想としては皆の排泄物でしかない、ただの寄せ集めです。
優秀な人の思想そのものも、結局あなた自身が積み上げてきたものではないので、まるごと真似して(真似すること自体はうねりへの「引き込み」「巻き込み」なのでやってほしいのですが)自分のものですよ、と言い張っても、ボロが出て、ほつれて、その隙間を取り繕ってもまた別のところが崩れてしまう。


あなた自身の積上げてきた感覚と考え方は、あなたが手づくりしてきたそれ自体でしかなく、他の誰かのものではないし、他の誰かがまねできるものでもありません。誇りに思って、大切に育ててほしいのです。

流行や誘導は沢山ありますが、一部取り込んで、一部真似して、一部吐き捨てて、間違っているなと思ったら直して、また積上げて、どんどん大きな波にしていくといいと思います。それがアイデンティティみたいなものなのかもしれない。

思考は、出来上がったものを持ってくることはできない。あなた自身が手づくりして、一見不格好でも、それ以上のものは(今は)どこにも無いのです。そこから始めるしかない。本当は生まれたときから始まっているし、つい何かに流されて、情報の多さに疲れてしまったら、一度いろんなことを思い出してみるといいかもしれません。

各位の思いが、思考停止の流行に押し流されることの無いよう祈りつつ、終わりにします。



(追記)

読みづらくてすみません。久しぶりに推敲せずに2時間×2くらいでガッと書いてみたのですが、長文になってしまいました。

皆さんは今日、どんなことを考えましたか。

私は、今日調理するつもりだったサバを解凍していないことに気づいてガッカリしたところです。ああ、何を食べよう。


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