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この世のすべてが粒子でできていると知ったとき

大学ではコンピュータサイエンスを専攻していた私ですが、高校在学中に最も得意だった科目は「化学」でした。
昔から理科はなんでも好きでしたが、物理学や算数(数学)よりも生物系、地学系のほうが好きで、化学もそのうちのひとつでした。(中学受験のために通っていた塾の理科の先生はちょっとクレイジーで、小学生に水酸化ナトリウムを触らせて指紋を溶かす体験をさせるような人でした!そのおかげ(?)かもしれない)

また、高校時代の私は、全くと言っていいほど授業を聞いていなかったくせに大学に入りたくて、なんとか追いつかなければと、夏休みに入ってから慌てて勉強を開始しました。とはいえ多くの科目を学ぶ時間がなかったため、英語と数学と、得意な理科(=化学)の三科目で入れる大学に絞って勉強を始めていました。

そんな状況でしたが、化学の勉強は非常に楽しく、英語と数学に耐え、息抜きとして化学を勉強するほどでした。(molのくだりなんか最高に面白かったですね。食塩と砂糖を同じ重さ(質量)を用意すると、分子一つの重さが違えば分子の数は異なる。よって反応量は質量ではなく分子の数(mol)で考えなくてはいけない。などなど)


で、ある日。学校指定の化学の問題集を終わらせて、そろそろ過去問にトライするかなと思い始めていた時期でした。図書館で、誤答を消しゴムで消そうと机に体重をかけた私は、突然雷に打たれたような感覚に襲われました。

「有機物無機物を問わず、化学的な結合にはすべて電子の力が作用している。要はミクロで見ればすべては電気的にくっついているといえる。」消しカスが黒鉛と紙の結びつきに勝って、こそげとっていく様子を見て、思考が加速します。
「と同時に、紙は破れないし、消しカスに巻き込まれなかった。より強い結びつきだからです。もっと言えば机は?体重をかけたが崩れないし貫通もしなかった。さらに結びつきが強いからですね。ああそうだ図書館も粒子だ。いや、というか、私も?

そうだ、すべては粒子なのだった。この鉛筆も、紙も、そしてこの机も。この机が机の形をしているのは、机が大きな机の形として在るのではなく、電気的な結合によって形作られているものだ。では、机も、この消しゴムで炭素シートを紙から引き剥がしたように、きっかけさえあれば簡単に引き剥がされてしまうのではないか?砂のように崩れてしまうのではないか?


無論、こんなことは起きません。電気的な結合などといっても、その結合の強弱は仕組みによって全く異なります。
だが私はそうでなく、そんな科学的な話ではなく、それらを理解したうえで、突然不思議な感覚に襲われました。私がこの粒子の上で勉強をしているのが、突然砂漠の砂のようにさらさらと崩れてしまうのではないか?さらに言えば、他のすべての机も。すべての蔵書も。この図書館も。もしかするとこの私自身すらも。

幼いころから原子分子については授業で学び、知っていたのですが、消しゴムで紙をこすった瞬間、唐突に世界がおかしな形に見え始めました。全ては粒子。人間すら、私すら粒子だという事実を突きつけられた。そのうち分解されて(つまり「腐って」)分子になる。そうでなくても、日々代謝して、空気、髪の毛、排泄物といった大量の粒子を放出している、ただの粒子の塊だった。

これは、なんというか、皆一様に知っていることなんですが、私はこれを「知った」のではなく「気づいた」というか、実感を伴う形で理解し、本当にそう見えるようになっていました。本当に、今、机に寄りかかったらその部分から砂のように崩れて、四本足のところだけが砂山のように残り、他は下に落下するのではないか?と。


この事態に私は少し高揚していました。この感覚に「陥った」人間はそう居ないだろう。電車で私の足を踏みつけて悪態を吐いた老人も、私の髪の毛を掴んで振り回そうとしたあの教師も、全部ただの粒子だ。砂粒がただ電気的にくっついて形になっているだけだ。ざまあみろ、生物様・人間様みたいな顔しやがって、と。

そして同時に困惑していました。粒子の塊である自分の存在には、一体全体どういう価値があるんだろうか?漠然と生きてきただけ、目の前にあるやるべきことだけを見つめてそれだけに取り組んできた私の人生は、その代謝するだけの粒子の人生には、どれだけの意味があるんだろうか?

もともと考え込む性質でしたが、これは私の中にある、何か、思いや願いのようなものが、大きくうねり始めたきっかけだったように思います。悩んでいる私は、勉強している私は、ただの粒子であり、死んで腐って分解される。大切な友人も、恋人も、家族も、あの有名人も、あの嫌いな人も、まったく知らないあの人も。皆同じく粒子である。

では生きるとは?その粒子が粒子を取り込んで粒子を排出してエネルギーを生成し、身体構造を少しずつ変化させながら世界と関わっていくということの意味は、どういう形で現れるのか?



さて。

実は、この記事を書くにあたっての私の心の内を満たしている気持ちは「死」でした。ネットニュース、読んだ漫画、身内の死、といった形で死について考える時間が数日続きまして(直前に書いた記事についても絡んできますが)、そういえば高校の時、ちょっとしたトランス状態に陥っていたなと思い出したものです。

言ってしまえばこれは単なる無知というか、陥ったと表現したとおり、私は分子の存在だけを感覚まで落とし込んだのに、先にも述べている結合についてが感覚まで落とし込めていないというだけの状態なので、何も高揚すべきことではないんですが。当時の私にしてみれば大発見だったんですよね。


併せて、現在読んでいる「分解の哲学」という本のイメージがかなり私の内側に入り込んできていて、それに影響されての「分解」という表現の多用でした。
冒頭で最高に引き込まれた節があったので、ちょっと長いですが引用させてください。

「環境」や「エコロジー」という言葉はしばしば、そこにはらまれる危険性を解毒されたうえで、お守りのように様々な議論や文書の結論に用いられる。どれもがどこか遠くからシステムが順調に動いていることを確認するような見方で、具体性に乏しく、言葉を尽くして説明していない。神の摂理のように当たり前の現象として循環をとらえるような「高みの見物」ばかりでは、「循環」を「サステイナブル」という国連用語および「企業の社会的責任」的用語と一体化させ、その政治・経済言説空間での王座の地位を強固にさせるだけである。そうではなく、どのような作用が循環の前提となっているのか、そもそも循環やサステイナブルと呼ばれている現象は、そんなつるつるでピカピカの現象ではなく、荒々しく、つぎはぎだらけで、皮がむけ、中身が飛び出し、過酷で、賑やかで、臭気が充満する現象であり、グロテスクの極みのようなものであるとともに、微生物や昆虫などの小さな分解者たちによって、人知れず、頑なに、いそいそと担われる健気さのエッセンスのようなものである。

私たちはつい分解や腐敗というものから目を背けて、臭い物に蓋をする感覚で、それが必要なものだと理解しながら具体的で本質的な部分からは目を背けている。SDGsを謳うスーツの役員らこそが汚れていない姿のままで何かを成し遂げようとしているかのように見えるが、実際にはただ汚れたゴミや瓦礫の中心にあるものこそが「循環」であると。私の視野の狭さを直接指摘するかのような文章で、感動しました。

本書はこうした腐敗の話、分解の話、リサイクルの話といった「物理的な分解」というメガネを通じて「~主義」や「~体制」といった思想や制度、人間関係の「分解」「腐敗」にもフォーカスしていくといった非常に面白い切り口の本です。まだ途中ですが、ゆっくり読み進めていければと思っています。

分解という言葉はその科学的な現象のみならず、「考え方」の分解、「制度」の分解(解体)、「組織」の分解(解体)といったように、概念や関係にも食い込んでくるものです。科学的な生物の分解は死生学を考える一つの切り口となりうるし、考え方の分解は哲学の最も初歩的な思考整理の仕組みなんだなと感動します。



ちょっと好き放題書いていたら発散しすぎてしまいました(いわゆる「推敲していないほう」になってしまいました)。すみません。

大学受験期、あの図書館で雷に打たれた瞬間に自分が感じていたことや、今の時代に感じていること、まさに今読んでいる書物の中身までが一気に縦軸で繋がりました。そんなことを10年越しでnoteに書いていると思うと、なんだか不思議な気分になります。

勉強って面白いですね。沢山救われてきたなと実感します。




~おまけ~

あまり具体的には書きたくありませんが、最近著名人が亡くなったり、苦しいニュースがたくさんありますね。ふとこの「気づき」を思い出しました。粒子であり、分解されるだけの存在であるが、それより以前に、何かを為したり、感じたり、他の人と関わってきたその活動に確かにあったはずの価値が見えなくなってしまうほどの苦しみとは果たしてどれほどのものなのか。
死生学的には二人称的な死(つまり親しい知人の死)こそが最も死的であるといいますが、一人称的な死(つまり自身の死)と向き合うのは至難の業です。

私は、どんなに苦しく悩んでいた時期でも死にたくない一方でした。死とは、終わりであり、分解です。物理的にも分解されますし、誰かの海馬に残った記録も、いつか脳細胞の劣化とともに分解され、跡形もなくなっていきます。
私の哲学的には、「(思考しているという自覚をもって)思考して哲学している状態」を「平常状態」であり「正」であると考えます。生きていないと”考える”活動ができないのだから、”考える”という活動においては”命を絶つ”というのはNGである(自ら”考える”の前提を壊す行為だから)ということです。
もっとアホみたいに書くと「考えるの好きだから死にたくない。死んだら考えれなくなるんだもの」ですね。

「考える」ことそのものが苦痛になってしまうような状態に陥ったとすると、もはやそれはまともな思考状態ではないと思いますし(例えばトラウマを患ってあらゆる不快感がフラッシュバックするとか)、なんとか病院に行くことができればと思います。
が、どうでしょう。そこまで追い込まれた経験がない私の発言はとても楽観的なものなのかもしれませんね。想像できないことが悔しいです。

なんとかその悩みを分解して、ひとつひとつ眺めてみたときに、案外突破口が見えてきたりするかもしれません。対人関係ならその人間と関わらないようにすればいいのかもしれませんし、経済的な問題なら身内か、公的機関が頼れるはずです(そのために私は納税しているといっても過言ではない)。自身の能力で絶望することは、まあ頻繁にありますが、それこそあらゆる哲学に救われてきました。救いは何でもいいと思います。音楽でも、本でも、信仰でも、勉強でも、哲学でも、なんでも。


また発散してしまいました。
読んでいただいた皆様が「分解」「腐敗」という考え方を通じて、少しでも気楽に生きられればいいなと想像して、公開とさせていただきます。

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