観客席で描くトレース

2002年2月。ソルトレイクシティーオリンピックを何の気なしに見ていた私は、ある一人の選手の演技に釘付けになった。
その選手の名は、アレクセイ・ヤグディン。ソルトレイクシティーオリンピックのフィギュアスケート競技において、男子シングルの覇者となった人物だった。

それは、私のフィギュアスケートへのイメージを一変する出来事だった。同年に開催された世界選手権のビデオを擦り切れるまで見て、当時は少なかった関連書籍を集めるだけに飽き足らず、どうしてもこの目でヤグディンを見てみたくて、夜行バスに飛び乗ってアイスショーに向かったあの頃を、昨日のことのように思い出す。

しかし、貧しい家に育った私にとって、形として残らない趣味にお金や時間を使うことは非常に心理的な抵抗があった。貧しい者は息だけしていればいい、贅沢はするな、という圧力を、私は常に感じて生きていた。
私には、あのきらびやかな世界に近付いていく勇気がなかった。ヤグディンを自分の目で見た最初で最後となったあのリンクで、不勉強な私はきっとこの場にふさわしい人間ではないのだ、そう思ってしまった。
夢が叶ったあの日に、私は夢を諦めた。

それから何年も、私はテレビや雑誌で情報を追うだけのファンとして、フィギュアスケートを見ていた。何度も何度も、本当に何度も、会場で、自分の目で見たい、音や空気を感じたいと思った。切望していた。それでも、どうしても勇気が出なかった。自分はひどく矮小で、つまらなくて、価値のない存在で、自由に生きてはいけないと思っていた。


転機は突然訪れた。

2010年に開催されたバンクーバーオリンピック。その熱狂は当時私の周囲にいた人々も巻き込み、アイスショーを見に行こう、という意気投合に繋がった。

2010年4月。夜行バスで到着した大阪の街。あの日この目に焼き付けた、綺羅星のようなスケーターの姿。バンクーバーのメダリストである浅田真央に髙橋大輔、後にオリンピックを連覇する羽生結弦、世界の宝物のような選手たちが駆け巡る、白い氷。
それは私をがんじがらめに縛り付けていた糸を焼き切ってしまうほどに熱く、儚く、美しかった。

それ以来、この目と、この耳と、この肌でフィギュアスケートを感じ取ることへの欲求が、私を縛った。横浜、新潟、福井、長野、福岡、東京、北海道、金沢、富山、静岡…。生活すらままならない程の給料を必死で、本当に必死でやりくりして、できる限り会場へ足を運んだ。
あの日々が、私を今の私へと変えたのだ。


旅なんて、無駄だと思っていた。
私は家族旅行をしたことがない。盆と正月は一家で父の実家へ出向いていたけれど、それは旅行ではない、帰省だ。帰省先は観光地だったけど、ほとんど観光をすることもなかった。
わざわざ遠くに出掛けて、宿泊費や食費を払って、大金をかけて思い出だけを作る意味が、私にはまったくわからなかった。わからないのも道理である、経験がなかったのだから。修学旅行はあくまで決められた学校行事の一環で、旅に出たという感覚は薄かった。

だが、フィギュアスケートへの情熱を求めるその日々が、無駄だと思っていたその行為こそが、私という人間に必要な要素だったことを、はっきりと自覚させたのである。

旅の目的はあくまでフィギュアスケート。観光に時間を割けないことも多々あった。けど、わざわざ観光地を探して足を運ぶことだけが旅ではないのだと、いつの頃にか私は気付いたのだ。

目的地までの交通手段や宿泊先等の調査から、旅は既に始まっている。経済的な余裕のまるでない私は、最大限に効率良く、なおかつ満足がいくような旅の計画を、何度も何度もシミュレーションしては詰めていった。
チケットを入手し、休みを調整し、予算を綿密に計算して確保する。宿泊先から会場までの経路、舌鼓を打てそうな名産、できる限りの情報を事前に入手することも忘れない。地元の駅から新幹線が出発するまでに、旅を決意してから既に何ヵ月も経過していることもざらだった。身体がその土地にないだけで、一年中どこか遠くに意識が向いていた。

どれだけ計画を立てたとしても、思い通りにはいかないのが旅である。それを楽しむのも込みで、旅なのだ。時には天候の影響で直前に交通手段を変更したこともあった。嫌な予感がしてギリギリまで交通手段を手配しなかったことが功を奏したが、今考えても不思議である。

生まれて初めて降り立った札幌は、人生で見たことがないほどの大雪だった。雪に音が吸い込まれた世界はこんなに静かになるのだと、生まれて初めて知った。
西日本から新潟へ向かうことの大変さを身に染みて味わった。フィギュアスケートに取り憑かれていなければ、一生行くことはなかったかもしれない。新潟で出会ったおかきがあまりにも美味しくて、一生行くことがない人生でなくて良かったと思った。
東京のエネルギー。寝込んでしまった福岡。漫画みたいで、今でも信じられないハプニング。旅先で出会った人の中にはかけがえのない友人となった人物もいる。
お土産選びは一切妥協しない。予算の範囲内で、徹底的に探した。「あなたのお土産にはハズレがない」と言ってもらえたことが、ちょっとした自慢だ。渡した相手に喜んで欲しくて、一切妥協しなかったのだから。

フィギュアスケート鑑賞も、旅行も、非日常に身を置くために出向いていると言ってもいいのだろう。日常から完全に自分を切り離し、日常では手に入らないエネルギーで強制的に自分を埋め尽くす。それが日常を過ごすための活力になる。新たな非日常への旅の計画を適度に挟み込むことで、みしみしと不安な音を立てる日常はどうにか回っていた。

けど、非日常を求めたはずのそこにあるのは、結局誰かの日常でしかないのだ。観光地にも人が暮らし、フィギュアスケーターは氷の上が人生である。彼らが私の暮らす世界を訪れた時、それは非日常になる。
非日常と日常は、同じもの。ただ立っている場所が違うだけだ。立っている場所が違うだけで、暮らしは、命は、世界中至るところに在る。

そうだ、私もこの世界に在る。生きている。確かにこの世界に生きているのだ。
私はこの世でいちばんはっきりしない自分自身の輪郭を確かめるために、非日常への旅を繰り返していたのかもしれない。


日常に戻れば、旅は終わる。通常はそうだ。
だが、私の旅はここからが本番だった。

会場で見つめたフィギュアスケートの想い出を伝えたくて、共有したくて、私は自分の友人や知人に読んでもらうために旅日記を書いていた。個別に感想を書くのが面倒になって、メールマガジンのような形にしていたのだ。
これが私に、あることを気付かせた。

旅日記を書くことが、ものすごく面白かったのである。特定の人物だけとは言え読んでもらうために書いているので、単なる日記にはならないように気を付けていた。頭の中をぐるぐると回る記憶や興奮は文字にしてしまえば追い出してしまえるようで、空いたスペースを埋める新しい記憶を求めてまた旅へと向かう。文字にした記憶の数々を読み返すと、追い出した、忘れていた記憶に辿り着く。誰かのために書いていた旅日記は、自分のための人生のアーカイブでもあった。

言葉を紡ぐこと、感動を伝えたくて紡ぐことが、こんなに面白く、止められないものだとは。
そうだ。私は書くことがとても好きだったじゃないか。子供の頃から、書かずにはいられない人間だったじゃないか。
「あんたは将来よく勉強して、語学をたくさん勉強して、そして本を書きなさい」
小学校を卒業する際にお世話になった担任が私にかけた言葉を、私の人生を救ってくれた先生の言葉を、私は一瞬だって忘れたことがなかったじゃないか。

散々回り道をして、全国へ旅をして、私は12歳のあの日に戻ってきた。
たぶん、すべてはあの日に戻ってくるための旅だった。本当の出発地点であるあの日から、本当に人生を旅するための。


私は電車に乗っている。脱線したまま、随分動いていない。途中下車を強制する声が聞こえる。息だけして暮らすために降りる駅。そこに降りたら、私という人間の輪郭は二度と描けなくなるだろう。
私は私を生きる。生きるために、その声には従わない。
電車の行く先はひとつだけだ。2010年の4月から、何度も何度も降りた、あの駅。もう当分降りていない、あの駅だ。
電車は進む。電車は戻る。いつだって、薄暗いリンクに音楽が鳴り響いた、あの瞬間へ。


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主にフィギュアスケートの話題を熱く語り続けるブログ「うさぎパイナップル」をはてなブログにて更新しております。2016年9月より1000日間毎日更新しておりましたが、1000日達成とともにnoteと交互に更新する方針に切り替えました。体験記やイベントレポート、マニアな趣味の話などは基本的にこちらに掲載する予定です。お気軽に遊びに来てくださいね。

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