【後編】早稲田通りの戦い 〜天下分け目の合同コンパ〜
カシスオレンジ1杯を飲み干しただけなのに、徳川イエミはもう耳まで赤くなっている。
「『乾杯』は『プロースト』だったかな、たしか」
覚えたてのドイツ語を披露するイエミを俺はすかさず褒めそやす。
「さすがあ。やっぱイエミちゃんって頭いいんだね」
「そんなことないですよー」
「いやいや、まだ1年なのにすごいって。俺なんか2年もやってんのに全然だもん」
「へえ、石田さんもドイ語やってるんですね。……ってことは、さっき『イッヒ・リーベ・ディッヒ』の意味わかってたんじゃないんですか?」
「まあね」
「意地悪!」
そう言うと彼女は掘り炬燵の下で俺の脚をちょんちょん蹴った。誉めそやされて気をよくし、アルコールも入って大胆になっているらしい。彼女のように容姿の優れた子は、可愛いとか美人とかその種の褒め言葉には慣れているだろうから、知性面を誉めることで承認欲求を満たしてやるのが得策だ。
不意にジーンズのポケットが振動した。スマートフォンを取り出すと、小早川からメッセージがきていた。
俺はあの巨乳ちゃんをせめる
席替えしよう
さすがは小早川。すでにこちらの狙いはお見通しというわけだ。せっかくイエミの向かいに座っているのにわざわざ席替えをするのは面白くないが、彼が前田トシエに目をつけたのなら、少なくとも利害対立は避けられる。ここはおとなしく協力しておこう。
「わりぃ小早川、ちょっと後ろ通らせて」
トイレに行くふりをして中座し、小早川に返信する。
俺はイエミちゃんにいく
相互不可侵だぞ!
いいな?
席に戻ってハイボールを注文すると、向かいの、なんといったか、キツネ目の娘に話しかけられた。
「お酒、強いんですか?」
「そうでもないよ。よくつぶれるし」
「ペース速いですよね」
「それで悪酔いするのかもなあ。こないだなんてさあ、酔っ払ってチャリンコ乗って生垣に突っ込んだまま朝まですやすや」
「えー、マジうけるー」
手を叩いて大げさに笑うキツネ目。
「めっちゃシュールですね。その光景見たかったー」
イエミも一緒にケラケラ笑っている。
「ねえ、みんなはどういう関係なの?」
俺の質問にキツネ目が答えた。
「うちらは同じ独文科で、中高から内部進学した親友同士なんです。で、イエミの小学校時代の友だちがトシエちゃん。マサミちゃんは英文科でトシエちゃんのクラスメートです」
将を射んと欲すればまずキツネを射よ。仲よくなっておいて損はなさそうだ。
宴もたけなわを迎えている。徳川イエミ、キツネ目のふたりと良好な関係を築きつつある俺は、上機嫌でどんどん杯を空けていく。ビール、ハイボール、ワインに熱燗。あれ? なんだか妙に酸っぱい唾が出てきたぞ。これは……やばい……。
「ちょっとごめん」
キツネ目との会話を打ち切った俺はトイレに直行、便器に向かってゲーゲー吐いた。いくらなんでも調子に乗りすぎたな。ペースが速かったせいもあるが、やはりチャンポンはダメだ。
トイレを出てふらふら歩いていると、不意に目の前を、ぷるぷるるんと乳を揺らしながら前田トシエが横切った。片手で耳を塞ぎながら、もう片方の手に持ったスマートフォンで通話している。
「うん、もうちょっとしたら帰るから。えー、だいじょうぶ。エータくんよりカッコいい人なんていないもん」
店内の騒音でそれ以上は聴き取れなかったが、話しぶりから判断して電話の相手は男に違いない。これはやっかいなことになったぞ。もしもこのことに勘づいたら、小早川は俺たちの間で結ばれた相互不可侵条約を一方的に破棄するかもしれない。あいつはそういう男なのだ。
慌てて部屋に戻った俺は、事態の一変した戦場を眺め、愕然とした。俺がトイレで吐いている間に、大規模な席替えが行われていたのだ。
まず、入り口からテーブルに向かって左の奥に上杉、その手前に伊達マサミが座っている。ふたりはさながら恋人同士のように、マサミが箸でつまんだ肴を上杉に食べさせたりしている。いつの間にこれほど親密になったのだろう。上杉のやつ、オタクで童貞のくせにどうやってマサミの気を惹いたのやら。
いや、そんなことはどうでもいい。問題はその向かいだ。右奥に徳川イエミ、その手前に小早川が陣取り、上杉伊達のペア同様、まるでカップルのように歓談している。裏切ったな小早川! そつのないあいつのことだ、おそらく前田トシエとの会話で、彼女に恋人がいることを察したのだろう。
苦々しい思いが顔に出ぬよう平静を装いながら、入り口から向かって左の手前に腰を下ろす。向かいには相変わらずキツネ目がいる。隣では毛利が、今売れているお笑い芸人の一発芸を真似し、全員に無視されている。
「そういえばあたし、熱燗って飲んだことないなー」
不意にキツネ目がつぶやくようにして俺に言った。
「へえ、そうなんだ」
イエミと小早川の様子を監視しつつ、俺は上の空であいづちを打った。
「ちょっともらってもいいですか?」
「ああ、どうぞ」
予備に注文しておいたおちょこを渡し、酌をしてやった。
「意外といけるかも」
「へえ、よかったね」
徳川小早川、上杉伊達のカップルは、もはや完全にふたりの領内に閉じこもっている。毛利は誰にも相手にされず、さすがにいたたまれなくなったのだろう、トイレに行ったきり戻ってこない。前田トシエは俺の斜め向かいで、退屈そうにスマートフォンをいじっている。もはやこれまでか……。
「注ぎますよー」
いつの間にか隣に座っていたキツネ目が、俺のおちょこにとっくりを傾ける。
「いいよいいよ俺はもう」
「ならあたし残りもらっちゃお」
嬉々としてとっくりを空けると、不意にキツネ目がまっ赤な顔でしなだれかかってきた。ここに至って、ようやく俺は彼女に好意を持たれているらしいことに気づいた。
「だいじょうぶ?」
そう訊ねると、酔っ払いのご多分に漏れず頼りない声でキツネ目が答えた。
「だいじょうぶです」
だったら離れてほしいんだけど、と言いたいところだが、まあいい。じきにこの合コンもお開きだ。赤いキツネは放置して、前田トシエの乳でも観賞していよう。
「しかもこいつさあ、高校時代好きだった娘に告白するとき、きもい短歌贈ってふられたんだよ?」
居酒屋の前の路上で、人目もはばからず小早川が俺を指差した。
「何それー! きもーい!」
だいぶ酔いがまわったらしく、徳川イエミが小早川に寄りかかってはしゃいでいる。俺は涙目で立ち尽くした。
「よし、全員そろったかな? じゃまあ、今日はみんなありがと! お疲れー!」
小早川の合図で解散と相成り、俺はようやく戦場から解放された。
「うう……気持ち悪い……」
泥酔したキツネ目が俺の腕にしがみついて離れようとしない。前田トシエは足早に、毛利はとぼとぼと、上杉伊達カップルは仲睦まじく帰っていった。
「だいじょぶノリコ?」
徳川イエミに気遣われ、おもむろにキツネ目が答えた。
「……ちょっと、休みたい」
「石田、おまえ送ってってやれよ」
小早川は無責任にそんなことを言っている。一刻も早くイエミをお持ち帰りしたいのだろう。
「一緒に帰ろ?」
おそらく本心からではないだろうが、イエミはキツネ目にそう言った。
「ううん、ひとりで帰れる」
「いや、やっぱ危ないから石田に送ってもらいなよ。俺はイエミちゃん送ってくからさ。じゃあな石田! しっかりやれよ!」
そうまくし立てると、小早川はイエミを連れさっさと帰っていった。
「歩ける?」
無言で首を縦に振るキツネ目。体が小刻みに震えている。俺はしかたなくコートを脱ぎ、それを彼女に羽織らせてから、ふたりで通りをゆっくりと歩いた。家は目白だという。タクシーを拾った。
「がっぷ……」
不意にキツネ目の口から漏れた生臭い空気に、俺と運転手は慄然とした。
「だいじょぶお客さん? 袋あるけど――」
運転手がそう言った時にはもう、手遅れだった。
車内に充満する臭気のせいで、ため息をつくことさえ許されない。俺は敗者だ。落ち武者だ。今ごろ小早川たちは……いや、もはやそんなことはどうでもいい。これだけ恥辱とゲロにまみれれば、もはやすべてがどうでもいい。
運転手の愚痴を聞き流しながら、俺はぼんやり外を眺めた。
タクシーや
かたわらで吐く
キツネ目と
ともに消えゆく
我が身なりけり
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