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物語にあふれる世界で、デザインが果たすべき役割とは? #221

この記事のテーマは「物語なしには生きていけない人間に、デザインができることは何か?」です。未完成の仮説を書いているだけですが、それでも興味を持っていただける方は、是非最後までお付き合いください。

物語の中で生きる人間

語り継がれる物語としての神話

神話とは、何千年も語り継がれる物語。神話のない民族はないと言われるほどであり、もちろん日本にも『古事記』という神話が存在します。その神話には大きく3つの役割がありそうです。

一つ目は世界の成り立ちの説明。この世界がいつ生まれ、どうやって今の世界になったのかを神様などを用いて説明します。二つ目は未来の行く先の説明。この世界はどうなっていき、私たちはどこに向かっていくのかを示します。三つ目は、行動規範として。自分たちの行動がどのような結果をもたらすのかという因果関係を紹介し、模範と禁忌を定めます。

科学の発展とともに神話の創作性にメスが入れられたことで、神話を無邪気に信頼することが難しくなった現代ですが、それまでは神話によって世界とその世界に生きる自分の存在理由を理解していました。


物語の役割

神話が何千年も語り継がれるということは、物語には何らかの役割や機能があるはずです。考えられる役割をここでは三つ挙げてみます。

一つ目は、世界の理解です。神話の例で紹介したように、物語はこの世界がどうなっているのかを教えてくれます。二つ目は、記憶の方法です。『知ってるつもり: 無知の科学』によると、人間の脳の記憶力は1ギガバイト程度であり、それでも情報を保存するために因果関係に着目した物語を利用しているそうです。三つ目は、コミュニティ形成の手段。『サピエンス全史』によると、人類は物語という虚構を共有することでコミュニティの規模を拡大できるようになりました。

このように物語には、世界の理解、記憶の手段、同じ物語を共有した者同士の協力をもたらす力があるのです。


現代も物語の時代

ここまでは主に神話について書いてきたので、現代に生きる私たちには関係ないように思えるかもしれません。ですが、実は現代も物語の時代であることは変わりません。

たとえば、現代にも「こうすれば幸せになる」という物語にあふれています。いい学校に入れば幸せ。いい会社に入れば幸せ。恋人がいれば幸せ。結婚すれば幸せ。子供がいれば幸せ。お金持ちになれば幸せ。出世すれば幸せなどなど。家族、学校、職場、国など所属しているコミュニティ(文化)の数だけ、幸せの方程式(因果関係)を示す物語があります。

集団の物語が神話ならば、自分一人の物語とはアイデンティティです。過去の自分はこうだった。未来はこうなりたい。過去と現在と未来の自分は同じ人であるという物語を紡いでいきます。たとえ自分という存在は日々移り変わっていくにもかかわらず、「私」という存在が主人公であり続ける物語を考えずにはいられないのです。

映画やドラマ、アニメなどといったコンテンツの共有は、人間関係の潤滑油になります。だから、流行の物語を見ていることが重要視されます。しかし、インターネットの時代ではコンテンツが過剰に供給されるため、人々は倍速視聴や要約・ネタバレ記事で追いつこうとしていると『映画を早送りで観る人たち』に書いてありました。

神話のように多くの人が同じ物語を信じる時代は終わろうとしているかもしれません。それでも、「幸せの物語」に振り回され、アイデンティティに悩み、流行りのコンテンツを追い続けなければと焦る。現代に生きる私たちは物語とともにあると言えるでしょう。


物語という構造に縛られる私たち

物語はいつの間にか私たちを縛る

今も昔も人間は物語とともに生きてきたことを確認してきました。しかし、物語は必ずしも私たちを幸せにしてくれるわけではないようです。

幸せの物語に従えば、本当に幸せになるのでしょうか? 世間が言う「幸せ」の物語と自分の人生が違うから、自分の人生は恵まれていないと思い込んでしまう。たとえ「幸せ」の物語と同じ人生を歩むことができたとしても、残るのはなぜか虚しさだけ。

物語は個人レベルだけでなく、もちろんコミュニティレベルでも機能します。その最たる例がナショナリズムでしょう。「あの人種を排除すればこの国は良くなる」「あの地域を獲得すればこの国は良くなる」「この戦争に勝てばこの国は良くなる」などの物語を国家全体で信じることがあります。そんな物語は人間に死を超克する力を与えます。


でも、物語は解釈の一つにすぎない

『知ってるつもり』で指摘されているように、人間は世界を物語によって理解したがります。しかし、世界は因果関係をストーリーとして語れるほど単純ではありません。近年の科学では複雑系(カオス)に関する研究が進み、一本線の因果関係で世界を捉える見方が変わりつつあります。

なぜなら、物語はあくまでも世界の捉え方・解釈の一つであり、絶対的に正しいものではないからです。正義の反対は悪ではなく、もう一つの正義とはよく言ったものです。現代はそのことに気づいて相対主義を掲げるようになり、「多様性を大切にしよう」という考え方が常識となりました。

でも、「多様性を大事に」とわざわざ言わなければいけないということは、人間は多様性を大事にしない生き物であるということの裏返しです。地球上に生きている人類がホモサピエンスしか残っていないのは、ホモサピエンスが他の人類を淘汰してしまったからという説もあります。記録の残る歴史だけでも大航海時代や植民地支配など、異文化を尊重せずに自らの物語を押し付ける例はいくらでも見つかります。

物語は解釈の一つにすぎないけれど、人間はその物語が唯一の視点であると思い込んでしまう習性があるようです。お互いの信じる物語が食い違う時、そこに生じるのは和解か、それとも衝突か?


デザイナーとして物語と向き合う

人類は物語とともにあり、人間は物語に縛られて生きていることを見てきました。では、ここまでの内容を踏まえると、デザイナーを志す身としては物語にどう向き合っていくべきなのでしょうか?

自分が信じている物語を自覚する

まず初めにするべきことは、人間が物語の中で生きていること、そして自分がどんな物語の中で生きているのかを理解することです。自分が信じている物語をメタ認知するのです。と言っても、メタ認知は自然にできるものではなく後天的に身につける技術です。ここでは、大きく通時的と共時的の二つの方法を取り上げてみます。

通時的とは歴史的な視点を取り入れることです。歴史を振り返ると今の常識が、ある時代に生まれたに過ぎないと気づけます。たとえば、ニーチェは西洋社会がキリスト教的世界観に囚われていることを系譜学によって明らかにしました。フーコーは近代(1800年以降)の人類が、人間中心主義のエピステーメー(知の枠組み)にあることを考古学によって明らかにしました。

共時的とは同じ時代の文化同士を比較することです。たとえば、文化人類学では異文化を理解するために、実際にその土地で現地の人と交流するフィールドワークを行います。すると、自分たちの文化との違いが浮き彫りになり、自分たちが当たり前だと思っていた思い込みに気づけるのです。

このように、系譜学・考古学的な通時的な視点と文化人類学的な共時的な視点の両方を活用することで自分が囚われている物語に気づくこと、そしてその物語が絶対的なものではないとメタ認知することが第一歩です。


自分で物語を選べると気づく

メタ認知によって物語や解釈が一つではないことに気づけば、自分に合う物語を選ぶ自由が生まれます。生きづらさを感じるのは、自分にとって都合の悪い物語を信じているからです。たとえば、「友達が多い方が幸せ」物語を信じているから、一人でいるのが辛くなるのです。

個人的な話になりますが、私は「とりあえず日本で有名企業に入れば安泰」という物語を信じられず、海外留学を検討するようになりました。「インターンをしなければ就職できない」という物語を選ばずに、note執筆に専念するようになりました。自分の囚われている物語から抜け出していっているのが私の人生の物語です。

自分が無意識に信じている物語をメタ認知して、その物語を信じ続けるかどうかを選択できる状態になる。これが物語なしには生きられない人間に与えられた自由への入り口なのではないでしょうか?


脱物語のデザインはあり得るか?

ここまでの考察を踏まえて、デザインが果たすべき役割を考えて終わりにします。これまでデザイン論について考察した記事で、「デザインは物語を提供する役割を担うようになっている」と指摘しました。これは神話を失った現代は神話に代わる物語を人々が求めているからではないか、とも書きました。

しかし、私は物語至上主義なデザインの方向性に異を唱えてみたいのです。デザインは物語を商品やサービスを通じて伝えます。でも、その物語はデザイナーの頭の中の物語です。その物語を消費者にも信じてもらうためにあれこれ工夫するのがデザインです。でも、それって本当にユーザーを、いや、人間を幸せにするのでしょうか? 物語を販促や説得の道具として利用しているだけではないでしょうか? そこで、私はこの風潮に対抗すべく、脱物語のデザインを提案したいのです。

脱物語を目指すと言っても、人間は物語で理解するように進化した生き物。だとしたら、脱物語の物語を語るしかないのかもしれません。脱物語の物語として私の頭に浮かぶのは、「シン・エヴァンゲリオン劇場版:||」です。本作は「さようなら、全てのエヴァンゲリオン」がテーマであり、エヴァという物語からの卒業式です。劇中の終盤では、特撮のセットを思わせる演出がなされ、宇部新川駅という実在の世界(エヴァのない世界)で幕を閉じます。

そもそもエヴァが伝えるストーリー自体が脱物語的です。シンジ君は「逃げちゃダメだ」と言う言葉に象徴されるように、エヴァに乗らない自分には価値がないと思い込んでいました。それが「エヴァに乗らない幸せがある」と気づいて「おめでとう」となるというのが、3回作り直された最終回に共通するテーマでした。

つまり、自分が信じている物語はあくまでも物語であるのに、それが変えられないと思い込んでいる。しかし、どんな物語の中で生きていくのかは自分自身で選べるというメッセージがエヴァには込められているように思えます。

従来のデザインが物語を生み出すことに焦点を当てるならば、私は「脱物語のデザイン」に取り組んでみたいと思います。現代に生きる私たちは、他人から押し付けられる物語に縛られて疲れ切っている。ならば、物語から解放させてくれるデザインの方が、本当の意味で人々を幸せにするのではないか? そんな「物語」を私は信じてみたいのです。


まとめ

人間は物語なしに生きていくことはできません。そして、物語のせいで生きづらくなることもあれば、物語のおかげで生きていけることもあります。私が海外留学に挑戦して学びをnoteに書き続けるのも、「留学生活が私の人生を、ひいては世界全体をより良くする」という物語を信じているからです。

また、デザイン界隈ではUXデザインやスペキュラティブ・デザインなどの新しいデザインが生まれ、物語を扱うようになりました。こうして物語が世にあふれていく時代に、デザイナーは物語を人々に押しつけ続けるのか? それとも、物語からの解放を助けるのか? 「次世代のデザインは『脱物語』を目指すべき」という仮説をもとに、引き続きデザイン論を考えてみることにします。

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