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2024年10月7日「こども風土記」感想


Audibleで、柳田國男の「こども風土記」を聞いたので、その感想です。


日本民俗学の祖、柳田國男


民俗学といえば、「柳田國男」というわけで、宮本常一からの流れで、柳田國男の著作に手を出す(耳を出す?)ことにしました。
柳田國男のことを知っているようで、よく知りません。
私が知っている柳田國男は、原作大塚英志、画森美夏による漫画「北神伝綺」に出てくる眼鏡をかけて髭が生えた、老齢の男性です。
情報が偏りすぎています…。
これを機に、その著作に触れてみるべきかも、と思いました。
柳田國男は、その名前通り、「日本人とは何か」という追求をした民俗学者とされていますが、この「子ども風土記」では、
彼の、純粋な好奇心、そして、人々に対する眼差しを感じます。

Audibleで聴く民俗学


民俗学関係の文章は聴くことと、相性が良い部分と相性が悪い部分の両方があります。
良い部分は、インタビューや聞き取りであれば、まさしく、それが採取せられた時のように臨場感たっぷりに聴けることです。
悪い部分は、漢字が見えないので、同音異義語の区別がつきにくいことです。
しかし、民俗学関係の文章はAudibleで聴いたほうが、頭にスルスルと入ってくるという利点の方が強い気がします。
この文章の収録時間は2時間43分です。
大変短く、手に取りやすい長さでした。
青空文庫に上がっているところを見ても、すでに版権が切れているのかもしれません。
読み手は落ち着いた優しい女性であり、この文章の柔らかさがより味わえるようになっています。

戦争が近づく中でのノスタルジー 


この文章は青空文庫で読むことができます。
ご興味のある方は、ぜひここからご一読ください。

柳田国男 こども風土記

最初にある小序によれば、
どうもこの文章は、朝日新聞に連載されていたもののようです。
新聞社からの依頼は「子どもとそのお母さんたちとにともども読めるものを」というものであったらしく、そのため、柳田國男の他の著作に比べると、平易な文章で書かれているのではないかと思います。
この小序がなかなか良いのです。
冒頭、
「新聞連載の「子ども風土記」が本になると聞いたが、連載中、近所の少年少女からの反応はなく、年をとった仲間からだけだった」というようなことを、ぼやきつつ、始まるのが何ともほのぼのとしています。
柳田國男の愛敬というかそういうものに触れてほっこりしたのですが、
調べてみて驚きました。
小序の終わりには、昭和16年12月14日と書かれているのです。昭和16年といえば、時代として、のんびり穏やかなものではなかったはずです。
日米関係もずいぶん悪化していた時勢のはずですが、本文の始まりは、「一昨年の9月にアメリカの大学の人から面白い手紙の問い合わせが来た」というものです。
新聞連載は初版よりは数年前だろうとはいえ、驚きです。
内容もどこかのんびりとしていて、たいそうノスタルジックな部分があります。
子どもの遊びについての文章なのですが、それを読んだり、それに投書してきたりする人は、皆、昔の「あなた子どもか、小さな子どもの母だったひとだと、柳田國男は書いています。
つまり今は大人であったり、子ども成人してしまった人の母だったりから投書が来るというのです。
今はもうない、もしくは消えていこうとしている遊びに対する眼差しは、同時に、自分や我が子を思い出す眼差しとオーバーラップするのでしょう。
柳田國男はどういう気持ちで子ども風土記の小序を書いていたのだろう、と想像してしまいました。
何も感じていなかったのか、それとも…。
柳田國男に投書してきた人々、そこに書かれた人々は、戦争を経て、どのような人生を歩んだのでしょう。
柳田國男のこの文章を読んだ人の中にも戦地へ向かったり、原爆の被害にあったり、身寄りがなくなった人もいたのかも知れない…、
そう思うと、この文章に含まれているしっとりとしたノスタルジーがより際立って、そして、幾ばくか恐ろしくも感じられます。

遊びについての記録と考察


さて、内容は子どもの遊びについての記録と考察です。
アメリカの研究者から問い合わせが来た「鹿・鹿・角・何本」「かごめかごめ」「中の中の小仏」「かぎ占い」「ネンガラ」などが取り上げられています。
現代の読者の何人が、この中の遊びを経験したことがあるでしょうか。
今の10代から20代でこれらの遊び、どれかひとつでも、体験したことがある人はほとんどいないのではないかと思います。
正月の鳥追いや正月小屋など全く知らない正月の行事も出て来ました。
また、飯事(ままごと)が平素の台所仕事を真似したことではなく、より、宗教的な行事を模倣したものではないかという話も盛り上げられています。
こうしてつらつらと上げていくと、柳田國男がこの本を書いた時点ですでに懸念していたように、
2024年現在、私たちは同じ国に暮らしているとはいえ、過去の遊びや行事をほとんど知らないといえるでしょう。
柳田國男はその人生を賭して、「日本人とは何か」を追い求めた研究者でもあると言われていますが、
宮本常一を読んで、しかも現在に生きる私としては、
「日本人らしさというものは、確固たるものではないのだろう」と思うのです。
全ては移ろいゆくのです。
また一方では、こう言った昔遊びをある地域に人工的に流行らせるとどこまで広がるのだろうか、とか、
改めて、「地域の遊び」を再創出することはできるのだろうか、という、ややマッドサイエンティストじみた興味も湧いて来ます。
研究としては倫理的にはねられてしまうでしょうか。
それとも誰かやっておられるのでしょうか。

最終章に見える研究者らしさ


最終章は、「鹿・鹿・角・何本」についての読者からの手紙をもとにした、
研究となっています。
これはなかなか読み応えがあり、お手紙を出した人たちは、きっととても興味を持って読んだことでしょう。
今も新聞でこういう試みをすれば良いのに、と思ってしまいました。
研究者の研究に参加し、連載を通してその結果が、見えるというのは、
市井の人間の知的好奇心を刺激すると思うからです。
戦前にもこういう営みがあったのですね…。

異国のように母国を知る


民俗学の本に触れると、自分が母国について何にも知らないということを痛切に感じます。
私は、私を育んできた文化や歴史や土地のことを本当に何も知らないのです。
それを知ることは、楽しいばかりでなく、時に不安を催します。
自分を形成しているものが、実は知らぬものであったというのは、王道のホラーではありませんか?
そして目や耳を塞いだほうが良いのだろうか…と思うこともあるのですが、
いっそのこと、異国のように母国を知ればいいのかもしれないと思うようになりました。
今後は、パリやヘルシンキ、北京やロンドン、ホーチミンのように、母国を知ろうとしていく所存です。
新聞連載されていたので、私のような民俗学初心者にも楽しめました。
柳田國男の著作ってどんなものだろう…という人には良い入門書となると思います。




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