見出し画像

2024年2月10日 好きなものは先に食べる?それとも後で?

現在、
以前に感想を書いたAudibleの「ヨルガオ殺人事件」下巻の方へ突入しており、

残り1時間となっています。
ミステリ、推理小説なので、今は最も面白い、謎解き部分です。
予想通りのところもありましたが、
やはりそこはアンソニー・ホロヴィッツ、読者の予想を超えてくる書きっぷりです。
本当に、面白いミステリです。
あんまり面白いので、仕事が早く終わった日には、家事をしながらどんどん聞き進めてしまい、
あっという間に、
最後のクライマックスまで来てしまいました。

通勤時間に一気に聞いてしまえばよかったのですが、家にたどり着いてしまったため、
最も気になる幕引きの部分が1時間残るという事態になりました。
「この三連休にゆっくり聞こう」とか、
「先を知りたすぎて、急いで聞いてしまったから遡って聞こう」などと思っていたのですが、
なんだか勿体無いような気がして、
聞けなくなってしまいました。
最後を聞いたら、聞かなかった時のように、楽しむことはできないと思うと
妙に慎重になります。
大事すぎて取っておきたいとか
素敵すぎるから、触らないでおきたいとか、
欲しすぎるから手を伸ばさないとか
そういう傾向が、自分にあるのかもしれません。

…。
少し考えてみると、確かにそういう傾向です。
子どもの頃から、好きなもの、美味しいものは1番最後に食べるタイプでした。
例えば、
スーパーのパック寿司を食べるとして、
最初に食べるのは、
イカやハマチです。
最後までとっておくのは、1番好きな貝のお寿司です。
寿司で最も好きなのは、
つぶ貝、赤貝、ホタテなどの貝なんですよね。
もしくは青モノ、イワシや味を好みます。

例えば、イチゴのケーキを食べるとしたら
イチゴは最後に食べます。
果物がとても好きなのです。
ご飯のおかずでも、美味しいとか美味しそうと思うものは、
最後までとっておこうとする傾向があります。

兄弟の1人は、逆で、先に好きなものを食べるタイプでした。
最後の最後に
好きなものをじっくり食べているこちらに対して、
「最後にちびちび食べて貧乏くさい!」と言ってきたことがあり、
ひどくショックを受けたことがあります。
自分としては、「大切で美味しい」からこそ、
最後に残して、ゆっくり味わっていたので、
全く意味がわからなかったのです。
兄弟としては、
「食べ終わった人間に対してあてつけでゆっくり食べてるのか?」
という思いもあったようなのですが
子どもの自分にはそんなことはわからず、
ただただ、「こいつとは相容れない…」と思ったことを覚えています。

大事・好きだと思ったものをどう扱うのか?というのは、
兄弟であっても異なるし、
親子でももちろん異なるし、
他人であるパートナー同士なら尚更、
完全に一致することは稀なのだろうと
今ならわかります。
「近しい人間だからそういう感覚まで同じだ」と思わない方が
トラブルは少なそうです。
また自分が、どういうタイプで、
大体、そういう状況で、どういう判断をしそうなのかを知っておくのも大事かもしれない、と思います。

さて、先に書いたように
「好きなもの、大事なものは後に取っておきたいタイプ」なのですが、
全てにおいてそうかと言われると、それもまた怪しいのです。
食べ物や読書については、完全にそうなのですが、
洋服や香水については
ガンガン購入して使っていくタイプです。
何か違うのでしょう。

形として残らない好きなものは、
ギリギリまでとっておきたいいうことかもしれません。
食べ物にしても、読書にしても、それを最初に味わうのはその時が、最初で最後なので
それならば、先にたくさん味わいを想像して、
予想して
その後に、体験したいのかもしれません。
服や香水は、何度も繰り返し使えます。
最初の頃から比べると、形崩れしたり、鼻が慣れてしまったりということもあるけれど、
もう1度、再生、できる気がするのです。
映画や音楽も、個人的にはこちらに入る気がします。
かなり近い形で、再生、再演ができる気がするのです。

食べ物の味と読書については、
「1度知ってしまうと、知らなかった時と全く同じにはなれない」
と信じているのかもしれませんし
もしくは、「再現性、再演性がひどく難しい分野である」と感じているのかもしれません。

そういえば、以前、アフタヌーンティーについての記事を書きました。

実は同じホテルのアフタヌーンティーに数
年にわたって、何度も行っているのですが、
毎回、少しずつ味わいは異なります。
それはホテルの調理側の問題だけではなく、
こちら側の体のコンディションの具合も相当大きく影響する気がします。
とある薬を服薬し始めた頃、アフタヌーンティーに行った時、
友達は「変わらず美味しい」と言っていたのですが、
誰も全く味がしなかったことがありました。
砂の味とまでは行きませんが、
馥郁たるお茶の香りが全くしなかったのです。
もちろんセイボリーもスイーツも全て、凡庸な味でした。
食べ物の味は、作り手のコンディションと、食べる側のコンディションが合わさったところにあります。
そして、それを最高の状態で味わうにはタイミングがあるのです。


小説についても、同じです。
本はいつでも読めますが、やはり時期とテンポというのがあります。
若い頃に小野不由美先生の十二国記シリーズや京極夏彦先生の京極堂シリーズを読んで良かったと思います。
今から読んだとしてもあれほど鮮烈には感じず、また自分の骨の髄に染み込むようなことはなかったでしょう。
さらに、年齢だけではなく、読むテンポも重要です。
面白いと思っ一気に読むのが良い場合と、
今回のように、ケーキのイチゴを残して最後に食べるような「タメ」があった方が良い場合があります。
その「タメ」の間には、
本から離れつつも、その本のことを考えながら、
生活します。
本の内容を消化し、味わう、贅沢な時間です。

消化するのに、必要な「タメ」がある作品に出会った時、
最後の章の手前で「タメ」を作りたくなるような作品に出会う時、
とても幸福な読書をしていると言えるのかもしれません。

とはいえ、しっかり味わいたいので、
明日には聞き終えようと思います。
勿体なくあり、非常に楽しみでもあります。

さて、あなたは好きなものを最後に残す派ですか?
それとも先に食べる派ですか。




気に入ったら、サポートお願いします。いただいたサポートは、書籍費に使わせていただきます。