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2024年7月5日 目指せ自分ウォッチャー


7月に入ってから、自分との距離が変わって来ました。
どういうことかというと、自分を俯瞰で見ている状態でいることが
多くなりました。
その状態が、進行、深化しているといっても良いかもしれません。
何か出来事があって、それに対して
怒りや悲しみ苛立ちなどの感情が湧いてきた時、
この俯瞰モードに入るのです。
「へー、そんなこと思うんだ」とか
「そういうことが気になるんだ」
と自分の反応に対して、どこか他人事のような視点で眺めるもう1人の自分がいます。
もう1人の自分はただありのままを観察する観察員です。
バードウォッチングをしている人のように、
蠢く感情を少し離れたところから見ています。
直接触れることはしません。

悪く言えば
感性が鈍くなってきたということなのかもしれません。
一方で、これは新しい視点だとも思うのです。
自分自身を新たに発見したような気持ちにもなります。
わかっているつもりで、
自分のことなど何も知らなかったのだということを思い知らされるからです。
当初は自分の感情にツッコミを入れていましたが、
最近は
「そうなのか」とか
「そうだったんだ…」とそのまま受け止めることにしています。
わざわざツッコミをいれて、
自ら感じたことを軽く否定する必要なんてない、と感じたからです。

例えば、
「暑くて不快だ。やる気が出ない」という気持ちがあるとします。
以前なら、その気持ちにそのまま激しく同調して、
再度不快になっていました。
最近は、「暑くて不快だ。やる気が出ない」と思った後に、
「まぁ確かに。湿度も高いし、活動意欲はさがるよね」とか
「夏は好きだと思い込んでいたけれど暑さには弱いんだな。そうだった」とか
「暑くて不快だと思っているのに、仕事はやっているんだな。えらい」などと
やや他人事で受け止めています。

誰かにいうわけでもないことなので
時には不謹慎なこと、非倫理的な考えも湧いてきます。
それでも、
「へーそんなこと思うのか」と思うだけで
その考えを止めたり、遮ったりしません。
脳内は自由であってよいからです。
不謹慎なこと、非倫理的なことを考えてもいけないとしてしまうのは
かえって危険な思考の苗床になるように感じます。
不謹慎なこと、非倫理的なことを思考から排除していっても
人間は結局、肉体を持つ動物であって、
咄嗟の時には反射で反応してしまうはずです。
その時に、自らのうちの不謹慎さ、非倫理的な部分になじみがないと、
その反射を認めることすらできないのではないかと思うのです。
「そういうつもりはなかった」というのが、1番タチが悪いと信じています。
出来得ることなら、自分の不謹慎さ、非倫理的な部分を少しは知っておこうと思うのです。

自分を俯瞰で眺める、自分のネガティヴな感情を
否定せず、判定せず、受け止めることは
無料ですし、比較的シンプルな思考の遊びだと思います。
これがなかなかよい効果があるのです。

気が短い方なのですが、この遊びをするようになってから
さほどイライラしなくなりました。
他人からの心無い言葉、
相手はそうとは知らずぶつけてきた、自分にとっては、痛い言葉によるダメージが
かなり減少します。
ダメージがゼロになることはありませんが最小になります。
また、あまり気が合わない人とのやり取りの苦痛も減少します。

「あの人の態度が嫌だな。舐められているのか、蔑ろにされているのか」
と思った際、
否定したり、惨めになったりせずに
自分の気持ちを観察しながら
「そう思っているのか〜」とか
「舐められた、蔑ろにされたりするのが嫌なんだな。不快だったんだな」と淡々と受け止めると
わりと傷が浅いのです。

双眼鏡を覗いて、小鳥を観察するような気持ちで受け止めるのがコツのようです。
つまり、触ろうとしない、
何かを変えようとしない、ということです。
不快な感情をいち早く消そうと焦るあまりに、
不快が弄り続けていたということなのかもしれません。

これを続けていると、自分というものはあるようでないのだな、と実感しています。
少し前まで「自分は自分」でした。
常に、自分であろうとしていたといってもいいかもしれません。
今は、そこまで確固とした自分があるようには感じません。
そしてそれが妙に楽です。
辻褄が合わなくても、筋が通らなくても
その場に即した自分であればそれでよい、と思えると、
さほどイライラしません。
「自分らしさ」なんて心の底から、なくてもいいと思えます。

バードウォッチャーは、
小鳥を触りませんし、飛び方や餌の取り方、巣の作り方を指図しません。
餌もやりません。

ただ遠くから、見るだけです。
それでも楽しいから、野鳥観察は一つの立派な趣味となっているのでしょう。
自分に対してもそれくらい寛容で、
敬意を持った距離を取ってもいいのではないかと思います。
小鳥に対しての敬意と同じくらいの経緯を自分に持ったって、かまわないでしょう。
自分自身だからといって都合よくああしろこうしろと指図したり、
断罪したり、判定したりする権利はないのです。

離れて眺めてみる、
自分という生き物はなかなか興味深く
健気な生き物です。
応援したくなります。
このモードがいつまで続くかはわかりませんが
しばらくは
自分ウォッチャーを目指していきます。



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千歳緑/code
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