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【海士町】海士町の介護を刺激したい人
海士町イン旅ュー2024夏はっじまるよ~🌊
今回ご参加いただいたのは 渡邊広樹 さんです!
現在:相手は年上であるということ、この日本を築いてくれた人であるということ、お客さんであるということ。
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ゆいぴ:
渡邊さんは今、何をしている方ですか?
渡邊広樹:
今は介護の仕事をしています。海士町で介護の仕事をする人を募集していて、それに応募して働きに来てます。
ゆいぴ:
具体的な仕事内容をお聞きしてもいいですか?
渡邊広樹:
海士町には全部で五つくらい施設・事業所があって、社会福祉協議会に所属で勤務しています。例えば、家で一人暮らししてたけどそれも不安だし、どっか専門の人たちにケア・支援してもらいながら生活を
したいという高齢者があつまる施設に勤務しています。
ゆいぴ:
そこでのお仕事はどうですか?
渡邊広樹:
高卒で進路を決めるときに、幼い頃から保育園の先生か、野球やってたのでプロ野球の選手になりたい思いはあって。とにかく子供が大好きで、自分の中では幼稚園の先生とか保育園の先生になるつもりではいたんですけど。いろんなきっかけがあって、最終的にはこの高齢者の業界に移ってきた。元々年寄り大っ嫌いで、子供って未来があるっていうか変な言い方だけど綺麗で、お年寄りって言葉は変だけど汚いとか、暗いとか先がないみたいなイメージが当時はあったっていうか。
やっぱり命っていうことをすごく考える。障害児とか児童の施設で働いているときには、あんまり命とか自分の生きるっていうことを考えずに、未来永劫自分の命って続くのかって思ってた部分ってどこかにあった気がするんです。高齢者の業界に移ってからは、昨日まで元気だったおじいちゃんが次の日亡くなったりとか、自分が夜勤明けで帰って次出勤したらおじいちゃんがいなくなってて入院してたりとか。そういうことでやっぱり命っていうことをすごく考えるようになったかなっていう気はしています。
ずっと本島でもそういう仕事をしてきたので、海士町に来て特別何か目新しいっていうことは自分の中ではないけども、でも海士町だからこそ距離感が近い。利用者さんと。例えば約2300人のうち半分が高齢者だとしたら、5年10年ぐらい前までは隣のおじちゃんだった人が入居されてきたりとか。本島では全く考えられない。本島で介護の仕事をしているときには、全く知らない人が入ってきてそこで初めて会う。でも海士町って、自分が子供のころ駄菓子屋で働いていたおばちゃんが入居して来るとか、旅館のおばちゃんが利用するとか。非常に距離が近い。利用者と職員が。その良さと悪さをこの4ヶ月の中ですごく感じています。
ゆいぴ:
距離が近いことの良さって何ですか?
渡邊広樹:
たぶん利用されているお年寄りからしたら、知ってる人が施設の中で働いてるってやっぱりそれは強みだと思うし、自分の思いも言いやすいとは思うんですけど。悪い意味でいくと、何て言うんだろう、隣のおばあちゃんだっただけに、スタッフは接客ではないんですよね。なんか馴れ馴れしくなっちゃうというか。本島で介護の仕事をしてるときの仕事の姿勢的には、なみおか様とか、ゆい様っていうような呼び方をしなさいって指導されてきた。でもこっちだと、昔からゆいおばあちゃんって呼んでたら、ゆいおばあちゃんとか、ゆいちゃんって言ったりしちゃう。本島で介護していた身からすると考えられないし、ありえない。お客様に対してちゃん付けするっていうことは。っていうのが良さであり悪さであるのかなっていうのは今すごく感じてますね。そこの葛藤かな。距離が近い上での良さと悪さ。
ゆいぴ:
その葛藤は今も?
渡邊広樹:
もちろん、日々、あります。
ゆいぴ:
距離が近いことの悪い部分ってどう仕事に影響してます?
渡邊広樹:
相手が少なからず自分より年上だったら、すごい知り合いだったとしてもある程度馴れ馴れしさに限度ってあるじゃないですか。どんだけ親しい仲になったとしても。でもそれを超えちゃってる怖さはあるんですよね。職員が上からお年寄りをみてるというか。これやりなさい、あれやりなさい、ってなりがち。でもお客さんだし、年上だし。なおかつ僕が思うのは、今こうやってゆいさんとお会いしてお話するのもそうだけど、この平和な日本を作ってきてくれたのは今のおじいちゃんおばあちゃんたちなんですよね。その人たちに対して、我々が横柄な態度をとることは僕はあり得ないと思っている、尊敬の対象であるし。
スタッフが「あなた」という表現を使って、利用者と話すときがあり、「あなた」って、上の立場の人が下の立場の人に使う表現ですが、高齢者に対して使っているスタッフが多い。
今ね、ウクライナだとかそういう人たちって、こうやって話してる間だって戦闘機が飛んだり爆弾落とされたりってしてることを考えたら、今この平和な日本があるのはその人たちが日本を作ってきてくれたからであって。その人たちを尊敬してこそ。馬鹿にする対象では全くないというか。ってことを僕は思ってて、そこをすごく葛藤してますね。
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ゆいぴ:
なるほど。先ほど子供は綺麗だけどお年寄りは…ってお話をされてましたが、そこから今の考えに至るまでのきっかけって何ですか?
渡邊広樹:
子供の施設って意外と少なくて、全国的にも。子供の施設を一回退職して、そのときに子供の施設の再就職先がそんなに数なくて。たまたまお年寄りの施設を新しく立ち上げるからやってみないですか、っていうお誘いがあって。いやいや高齢者なんて絶対無理!って思ったんだけど、でも何かを作り上げてくって楽しいからやってみよう、と思ったら、はまっちゃったかな。もちろん今すぐ子供の施設に戻れって言われたら全然戻れるし子供も好きだけど、やっぱりその命っていうことをすごく考えるようになった。
あとは自分の父親も母親も他界しましたけど、2人とも最後は認知症だったんですね。そのときに、職員の立場ではなくて家族の立場として、病院を利用したり施設を利用したりするっていう。今までは逆じゃないですか。施設の職員、病院の職員として、おじいちゃんのご家族を迎え入れてたりとかしてたけど、その逆になったときに「家族の気持ちってこうなんだ」ってことを体験できたことはすごく大きかったし。それは僕の両親が僕に置いていった宿題であるのかなって。家族が求めているもの、利用者が求めているものは何かっていうことの宿題を両親は置いてったのかなって思ってますね。
ゆいぴ:
お仕事をしてるときってどんな気持ちや思いを抱いていますか?
渡邊広樹:
まずさっき言った三つ。相手は年上であるということ、この日本を築いてくれた人であるということ、お客さんであるということ。この三つを絶対に忘れないっていうことは自分の中では信念として思っています。それさえ忘れなければ良いケアが出来なかったとしても、悪いケアや支援をするはずがないと思ってるので。そこの三つだけは絶対忘れないということ。
あとはお年寄りって大体何かするとありがとうって言ってくれるんですけど、僕は、僕が「ありがとう」って言う機会をたくさん日々の仕事の中で作りたいなっていうのは意識してます。例えば、自分で来てくれてありがとうとか。本来だったら僕が車椅子を押すところを頑張って自分で漕いできてくれた、それに対して僕は楽をできたわけですよ、良い意味でね。だから頑張ってくれてありがとうございます、って。なるべく僕は「ありがとう」と言う機会を生活の中で作るように意識してます。
ゆいぴ:
それを思い始めたのはいつ頃ですか?
渡邊広樹:
やっぱり両親が患者であったり施設の利用者になったのはでかいですよね。両親が例えば元気なままだったり、たまたま病気でぽっくり逝っちゃったとか、事故で亡くなっちゃったとかってなれば、こんな思いにならなかったかもしれない。両親が病院の患者という立場になったり、施設の利用者という立場になったときに、自分が家族として病院や施設にお世話になるっていう経験をしたのはすごく大きいかなと。
ゆいぴ:
へえ。お仕事以外にやっていることや趣味ってありますか?
渡邊広樹:
僕はね、犬を飼ってるんですよ。ミニチュアダックスで今9歳なんですけど、もうとにかく、変な言い方だけど趣味も全て捨ててでも、彼と一緒にいたいというか。オスの犬なんですけどね。一緒にいたいっていうのが大きいですね。本当にその犬中心の生活になってます。この海士町に来る前、茅ヶ崎に住んでたんです。茅ヶ崎わかります?
ゆいぴ:
わかります、わかります。
渡邊広樹:
今から10年ぐらい前、もうちょっと前かな。茅ヶ崎に引っ越したときにも、茅ヶ崎行ったらサーフィンやりたいって思ってて。サーフィンとか最初はやってたんですよ。でも犬を飼ってからはもうサーフィンなんかどうでもいい、サーフィンする時間があったら犬と一緒にいたいみたいな感じで。犬が来てから9年はもうマリンスポーツはやってないし、そんな時間があるなら犬と一緒にいたい。犬中心の生活ではありますね。
ゆいぴ:
わんちゃんの何に惹かれているんですか?
渡邊広樹:
元々犬は好きだったし実家でも犬飼ってたっていうのはありますけど。その犬に出会えたことと、犬の十戒っていう言葉があって映画にもなったみたいなんですけど、犬側が人間に対して、僕はこういう気持ちなんだよって10個言ってるフレーズ。その中に「あなたは職場に行けば友達がいるけど僕にはあなたしかいないんです」って言葉があって、ものすごいグッと入っちゃって。そうだよなって。俺は犬を置いて職場に行けば仲間がいるし友達もいるし。でもこいつには俺か妻しかいないってことを考えたら、犬の生きる10年15年を飼い主の責任としてなるべく彼(犬)と過ごしてあげること、我々が飼うっていうことの責任をすごく感じて。茅ヶ崎にいるときに妻と話して、お互いの勤務体制を変えたんです。それまでは結構職場にいる時間が長かったんですけど、妻とも話して、こういうふうに勤務体制を変えれば犬が1人で家にいる時間を減らせるっていうのをお互い工夫して。彼のために費やせる時間は費やしていこうっていう夫婦の約束事の一つというか。
ゆいぴ:
わんちゃんといて何が一番楽しいです?嬉しい瞬間とか。
渡邊広樹:
べったりこっちに体をなすりつけてくれたりとかね、そういう喜んでくれたりするのはやっぱ嬉しいですよね。海士町に来るのも決断を最後まで迷ったのはそこです。ここ獣医さんいないんですよ。獣医に受診するため、何かあったときに隠岐の島に行くしかなくて。そこが実は海士町に引っ越しする最後まで迷ったところ。今、彼は9歳なんですけど、仮に15歳までしか生きないとしたらもう人生半分以上過ぎてる。ってことは病気になりやすかったりする。助けられた命を助けられないかもしれない。だってレインボー(高速船)に乗って隠岐の島まで30分かかって、とかっていろいろ考えたら。夜だったらレインボー出てないし。そしたら助けられる命を助けられないかもしれないってことを考えると、最後まで海士町への引っ越しも迷った。でもまだ9歳だし、我々としてはハタチぐらいまで生きてほしいという思いもあるので。でも犬のハタチってね、人間できっと100歳超えてると思うし、どこまでいけるかわかんないけどね。とにかく彼といる時間は何でも楽しいです。彼が怒ってたとしても。
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ゆいぴ:
そこで迷ったけど海士町に移住した、決断したきっかけって何かあったんですか?
渡邊広樹:
僕は離島で介護の仕事をしたいっていう思いがどっか前からあったんですね。僕以外はみんなおじいちゃんおばあちゃんで介護する人も僕ぐらいしかいないみたいなイメージがあって、そういうところで介護の仕事をしたいなっていう思いはあって。でも、誰にもその話をしたことがなくて。僕は途中でオーストラリア留学をしてて、行く前の数ヶ月で英語を習うわけです。そこで、あなたの将来の夢を英語で語りましょうみたいな授業があって。俺の夢って何だろうな、離島で介護したいってそんな夢あったよな、ちょっとこれを英語で先生と話してみよう、って思って。その離島で介護をしたいっていう話を初めてその先生にして。その先生は広樹さんならできますよ、その夢叶いますよ、みたいなことをすごく言ってくださって。
数年前にその先生が60代で他界して。数日前ぐらいまでは普通に…体調悪いっていうLINEはきてたけど、でも死ぬなんて思ってないし。先生が亡くなったっていう知らせを聞いて、その数日後かな。Facebookかインスタで「離島で介護しませんか?」ってパッと入ってきたんですよ。本当に怖いぐらいの偶然で、なんだこれはって。先生にしか話してなくて、そのことがFacebookかインスタで入ってきたことが何かの縁だなと思ってすぐそこに連絡して。ちょっと見学に行きたいんですけどって、見学ツアーがいついつにありますって言われて。いやもうそこまで待ってられないんで何日だったら休み取れますけど行っていいですか?って担当の人に言ったらいいですよって個別対応してくださって。そこで決めた。ほぼ決めたかな。でも最後まで犬のことは迷いましたけど。離島で介護しようっていうのはすぐそこで決めた。
ゆいぴ:
離島で介護っていうのは海士町が出してた広告ですか?
渡邊広樹:
うん、今働いてる施設で。介護業界ってどこも人手不足なんですけど。職員募集するときの一つのキャッチフレーズとしては非常にね、良いキャッチなのかもしれませんけど(笑) だから僕と同期は7人、ほぼ同時期に本島から来たメンバー。彼らもそれぞれ生き方が違ったとしても、やっぱり離島で介護ってのを一つキャッチとして入ってきているので。それまでは海士町なんて全く知らないし、皆さんもそうだと思いますけど。カイシ町ってどこ?みたいな。町名も読めないし。島根って僕の中では認識したことのない都道府県、島根ってどこよ?みたいなところも正直あったし。唯一テニスの錦織くんが島根出身だっていうぐらいしか知らなくて。島根って何?ああ出雲大社か…とかね、後から思い出すのはあるけど。そんなことが偶然重なって、先生が亡くならなかったりとか、そこで広告とか入ってこなかったら、たぶん今ここにはいないと思うので。これも何かの縁というか導きかなと思ってます。
過去:何もできなかったのにありがとうって言われたことがすごく悔しかった。すごく悔しかったってことは覚えてます。
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ゆいぴ:
渡邊さんは、どんな子供でしたか?
渡邊広樹:
泣き虫でした。僕、次男坊で兄が四つ上にいるんですけど。どんな子だったかって言ったら、たぶん親戚のおばちゃんおじいちゃんたちがみんな泣き虫だったっていうくらい暇さえあれば泣いてたみたいで(笑) あとは小学校2年生から兄の影響で水泳を始めたので、2年生からちょうど4年間、小学校6年生までやってましたけど、もういかにしてさぼるか。兄貴は真面目な人なんで、練習もすげえ頑張って成績も出してたし。でも僕は兄貴が凄すぎて、その弟だと言われることで子供なりにプレッシャーになってたし。兄貴も背泳ぎで僕も背泳ぎの選手だったんですけど、どんだけ僕が頑張っても兄貴の記録には追いつかないし。逃げることしか考えてなかったかもしれないですね。いかにさぼるか。
そんな子供だったけど目立つのは大好きだったんで。あの頃って、かっこよくなくてもスポーツができればモテたみたいな。だから僕は人生のモテ期は小学校で終わったなっていうぐらいスポーツ万能だったので、水泳とか野球とか。野球も中学生に混ざってやっても引けを取らないぐらい、そんな実力だったので僕のモテ期はあそこにあったかな。小学校4年生から6年生くらい。で、自分の思い通りにならないことがあるとすぐキレて、何か物に当たって、自分のルートに入れようみたいな。ガキ大将でもあったのかな。泣き虫ではあったけどガキ大将的な面もあったかもしれないですね。図書委員長と児童会長をやりました。
中学のときは、体育委員長。学校の方針としては1人でも多く競技に出すっていう教育方針。例えばわかりやすく言うと、水泳のリレーは普通4人だけど、8人でやった方がいろんな人が泳げるっていう、学校はそういうルールを決めてたけど、うちのクラスは8人出すと絶対勝てないんですよ。でも4人っていう本来のルールだったら絶対勝てるクラスだったので、僕が体育委員長になってルール変えちゃったりとか。そういうわがままっていうかね、勝って喜んでるみたいな。自分勝手な男でしたね。
ゆいぴ:
泣き虫って言うのはいつぐらいまで?
渡邊広樹:
今もドラマ見て泣いちゃうとか本見て泣いちゃうとか、そういうのはありますよ。ちっちゃい頃の泣くと今の泣くとは、ちょっと意味が違うかもしれないですけど。とにかく泣き虫だったっていうのは言われますね。親戚のおばちゃんたちも本当にあんたは泣き虫だったって。兄貴にちょっと叩かれただけで泣いて母に知らせるとかね。
ゆいぴ:
じゃあ、小中学校を通して印象に残っていることってありますか?
渡邊広樹:
小学校1年生のときかな、脱腸って言って腸の部分が出てきちゃう病気というか、大したあれではないんですけど。ちょうど運動会の時期で、はっきり何ヶ月入院したとか全然覚えてないんですけどそこで入院生活をして。それは今思うと、もしかしたら自分が医療とか介護とかを志すことに…。あの当時入院してたことは意外と覚えてますよね。子供の頃のことは普通忘れちゃうことが多いだろうけど。当時は溶けちゃう糸とかではなくて手術した後に抜糸っていう処置があって、そのときの恐怖感であったり、あるいは手術室に向かうときの恐怖感であったり。小学校1年の記憶ではあるけど、覚えてますね。だから当時の先生の名前とか、病室にいた人の正式名まではわかんないすけど、僕がこのベッドだったらあそこに星野のおじちゃんっていう人がいて、ここに確か駒場さんっていうお兄さんがいて。リレーの選手に選ばれていたのに運動会に出れなかった悔しさ、悲しさ。覚えてますね。なんかすげえ今思い出した。言われなきゃ思い出さなかったかもしれないけどよく覚えてますね。
今も傷があるんですよ。ちっちゃい頃やっぱり銭湯とか、プールはちょうど水泳パンツに隠れるんであれですけど、銭湯に行ったりするのが嫌で。今は傷も肌と同じ色してるからあんまり目立たないけど、当時の手術の技術ってたぶん大したことなくて。今だったら医療も発達してるからこの傷も本当に目立たない傷になってたんだろうけど。今は肌と同じような色だけど、当時は肌に赤いのがバーッとあって嫌だった。でもうちの親父って銭湯好きで銭湯連れて行かれたりとかして、そういうのはすごい覚えてますね。
ゆいぴ:
どんな気持ちだったかって覚えてますか?
渡邊広樹:
とにかく恐怖でしかなかったですよね。手術するって何だかよくわからなかったし、手術台に乗せられるし、抜糸なんか超痛かったんですよ。どれぐらい痛かったかはもちろん覚えてないけども、超痛かったっていうことはよーく覚えていて。手術室から帰ってきて目覚めた瞬間のことも覚えてるし、麻酔が切れた瞬間とかすっげえ痛くて怖くて。それでも泣いてたなって。
ゆいぴ:
小さいながらに怖い体験をされたんですね。
渡邊広樹:
それが今思うと医療とか福祉とか介護の原点だったのかも知れない。
ゆいぴ:
中学校を卒業した後はどういう生活を?
渡邊広樹:
高校に行きました。球の速さだったら中学生と間違えられるぐらいの男の子で、少年野球やってても、中学生が小学校のチーム入ってんじゃないかって言われるぐらい実力があったので。高校もずっと僕が行きたかった野球の名門校に入れたので、思いは達成できたけど。まずその野球部に入るのに入部テストがあって、当時80人ぐらい希望者がいて、20人に絞るって言われて。みんな硬式野球で、リトルリーグで子供の頃から硬いボールでやる野球。僕はずっと柔らかいボールでしかやってこなかったので、その80人のうち硬球握ったことないのが3人ぐらいしかいなくて、そのうちの1人だった。
実力も自分はお山の大将だと思ったら、僕はあの辺まで打てないのに、周りの連中がすげえ遠くまで売ってるし。初めて、自分の実力はそんな大したことないんだなっていうのに初日からぶつかって。でもなんとかその20人に入ることができて、今思うと奇跡なんですけど。こないだね、大社高校(島根県代表)も頑張ってたけど、ああいう甲子園を目指す3年間。本当に野球漬けでしたね。今だったら体罰だって言われるような時代ですから僕の時代は。今だったらすごいですよ。それに耐えてきた強さもあるのかもしれない。高校は本当に野球に明け暮れた3年間でしたね。おかげで仲間に恵まれて、三回も甲子園に行くことが出来た。
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ゆいぴ:
高校卒業した後はどうでした?
渡邊広樹:
保育園の先生かプロ野球選手になりたいって思ってたけど、プロ野球選手はもう高校に入った初日で周りのレベルの高さになれるわけないじゃんって思って。そうすると保育士とか幼稚園の先生になりたいなっていうのは思ってて。ちょうど8月、最後の年に甲子園に行けて。僕はスタンドで応援してる方でしたけど。それが終わったときに親戚のおじさんが障害を持った子たちを旅行に連れて行く日帰り旅行の企画があるから、力あるし手伝えと。野球終わったし暇だろうと。それで手伝いに行ってたまたまそのときに、今日この男の子がお前の担当だからこの子の世話をしなさいっていう当番に当たって。でも障害の知識も全くないし車椅子の押し方だってわかんないし。どうしたらいいかわかんないけど、高校生の僕なりにその子の楽しませ方を頑張ったのかな、その日のことは正直よく覚えてないけど。
その旅行は日帰りだったんですけど、終わったあとその子のお母さんが「本当に1日楽しかった。渡邊さんのおかげで楽しかったよ、ありがとう。」って言ってくれたときに、ものすごく悔しくて。何もできなかったのにありがとうって言われたことがすごく悔しかった。すごく悔しかったってことは覚えてます。だったら、健康な子供ではなくて、障害を持った子供の勉強をしたいなって思って。それがきっかけで、専門学校も福祉の専門に2年間行きましたけど。たぶんそこが自分の一つの人生のターニングポイントだったかなという気はします。
専門学校行ってからはもう勉強楽しくて。高校までは勉強なんか超つまんないし、どっちかっていうと算数とか理科とか大嫌いだったので、常に赤点ばっかりだったけど。専門学校行ってからは自分の興味ある勉強ばっかりだし、先生が話してるってことは僕の将来に役に立つことだなっていう部分ではものすごく授業が楽しくて面白くて。本当にその2年間は勉強したなって思いますね。卒業するときに卒論で最優秀賞を取ったり、全国優秀学生賞をいただいたりとか、俺の50何年間の中であの2年だけは勉強したなと。
ゆいぴ:
その学校を卒業してからは?
渡邊広樹:
ずっと介護と福祉をやってきて。僕は長野県の出身なんですけど、高校卒業してからずっと神奈川、専門学校も神奈川だったので。でも25歳のときに親父が病気になったので、1回長野の実家に帰って。そのときに1年間親父の状況を見つつも、介護以外の仕事をしてみようと。ずっと介護の仕事とか福祉の仕事をしていくんだろうなと思ったけど、これで60、70歳まで仕事していくのはつまらないなって思って。あえて1年間、違う仕事、いろんなことをしたいなと思って陶芸やったりとか。友達の家が土方の仕事をやっていたので、友達にお願いをして土方の仕事を手伝って。道路ってこうやってできるんだ、家の基礎ってこうやって作るんだっていうことを初めて知ったり。友達が当時、地図に残る仕事をしたいみたいなかっこいいこと言ってて。そうだよな、この家を建てたらこの家が地図に載るしそういうことか、って思って面白いなって。1年間あえて介護とか福祉の仕事から離れたことは、すごく大きかったかな。
今度もう1回介護の仕事を離れるのは35歳のとき。30歳でその施設の介護の分野のトップになっちゃったんですよ。例えば65歳まで働くとしたら、35年間介護長でいることの面白さを感じなくなった。そっから上がもうないわけですよ。じゃあ一番嫌いなことをやろうって思って。そのとき人生振り返って、俺の一番嫌いなことって何だろう?って思ったら、英語だったんですよ。本当に英語できなくて、わかんないから質問するんだけど質問が多すぎて先生としては授業を遮断される生徒というか。僕は知りたいから質問するんだけど、先生から遮断する生徒って思われてたから僕の質問には答えてくれなくなって。先生が好きかどうかで好きな教科って決まると思うんですけど、そっからもう英語大嫌いになっちゃって。じゃあ英語に挑戦しようと思って。
日本で英語の塾に行ったとしても1日24時間のうちたかだか1時間英語を学ぶだけで、23時間日本語で話してたら全く英語勉強できないなと思ったんで、海外に行こうと思って。うちの奥さんも元々海外志向が強くて、結婚する前も結婚してからも結構留学したりとかしてたんですね。今度は俺の番だと思ってうちのかみさんに「1ヶ月間ぐらい外国に留学いきたいんだけどいい?」「今度は俺も行きたいんだけど」って言ったら一緒に行くって言い始めて。結局2人でオーストラリアに、僕が35歳の時に。日本の住居とか荷物とか引き払って、夫婦2人でオーストラリアのメルボルンに1年半。
彼女はワーキングホリデーのビザを取れたので1年間は働けたんですけど、僕はもう35歳過ぎてたのでワーホリの資格がなくて。オーストラリアに居続けるためには、語学学校に通うしかなくて。全く英語わかんないし、語学学校行って授業始まっても何やってるかわからないし。たまたま同じクラスに日本人の16歳の女の子がいて、その子だけが頼りですよ。35、6にして16歳の女の子に「今何してんの?これから何すればいいの?」って。唯一日本語で聞けるから。で、その子が教えてくれても結局英語全くわかんないから、テキストに書いてあることの一つ一つの単語を電子辞書で調べるところから始まって。みんなが回答をしてる最中に僕はやっと1行目2行目の文章の意味がわかったぐらいの勉強だったけど、刺激のある毎日でしたね。
夫婦で一緒に住んでても結局うち帰ったら日本語ばっかりになっちゃうので、それぞれ別々のホストファミリーの家に入って。あるおばあちゃんとおばあちゃんの娘と娘の彼氏がいる家にホームステイしましたけど。もう日本で学んでた英単語は初日で全て使い果たしたっていうぐらい。何とか喋らなきゃと思うからね。日本で一生懸命勉強したことは初日で全て使い果たしたってぐらい頑張ったけど、僕の語学力はそこまでしかなかったから。今思うと、みんな夕飯食べたのに僕だけ夕飯なかった日もいっぱいあったし。なんでかっていうとホストマザーが「夕飯どうする?」とか「いるの?いらないの?」みたいな質問しても、僕はイエスとかノーとかしか言えないから。そのときの感じでイエスイエス!って答えて、そう答えたときはたぶん「ヒロはご飯いらないね?」「イエスイエス!」っていう。で、食卓行っても俺のご飯だけない、みたいな。でも俺のご飯がないってことは、さっきの質問はそういう質問だったんだなって思って。もう本当にいい経験ですね。
日本の英語教育がどこまで型に縛られた教育なんだろうかってすごく感じて。これは誰ですか?だったらwhoから始まる。何ですか?だったらwhatが始まるとか、どのようにってのはhowから始まるとか。助詞だ主語だっていう順番がもうね、決められてるっていうことで習ってくるじゃないですか。いわゆる文法を習う。でも文法って必要ないんだってすごく感じたんです、オーストラリア生活の中で。最後の語尾を上げたらそれは疑問文であって、例えば普通「This is a pen.」って言えば肯定文だけど「This is a pen?」って上げちゃえばもうそれは疑問文になるっていうことを学んだ。そういうのを感じて、日本人の教育に対してものすごく疑問を感じたっていうか。オーストラリアの授業も、日本の先生が1時間黒板にいろいろ書いて教えるだけのような教育ではなくて、これから環境についてグループで話し合いなさい、それを発表しなさいとか。個人にそれぞれテーマを与えられて、ヒロはこのことについて調べて60分後に発表しなさいね、ゆいさんはこれについて発表しなさいね、みたいな感じだったので。発表するんだったらみんなの前で英語喋らなきゃいけないし、一番下のクラスだったけど韓国の友達も英語で頑張っていたし、イタリアの友達も頑張っていたし。お互いたどたどしい英語で何言ってるかよくわかんないんだけどね。1年半頑張ったかなと思います。
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未来:渡邊広樹という人間と出会えたことに対して「良かったな」って思ってくれる人が1人でもいたら、60年か70年か80年かわかりませんけど、その人生に意味があったのかもしれないなと思いますね。
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ゆいぴ:
渡邊さんはこの先の近い未来から遠い未来まで、最後に渡邊さんが死んでしまうところまで考えて、未来に対してどういうイメージがありますか?
渡邊広樹:
自分が死ぬのかな?っていうイメージはまだ正直つかめない。こういう仕事をしてるから死って身近にあるし、死って当たり前にあるんだけど。もしかしたらこの帰りにね、車に轢かれて死ぬかもしれないし、突然心臓発作になるかもしれないし。でも僕が死んだときに、僕に出会えたことを良かったって思ってくれる人が1人でもいてほしいなって思うし、1人でも多くいてほしいなとは思いますね。それはちょっと答えになってるかわかんないけど。人は出会いによって、化学反応を起こすと思っていますので、良くも悪くも。
極端な話だけど、家族葬で葬式をやりました、家族でやるんで友達とかいろんな人は来なくていいですよ、っていうのに、なんでこんなに葬式に人が来るの?って言われるような葬儀だったら良いなと思いますね。っていうのは僕の高校の親友が、6年ぐらい前になるかな、突然死をしたんですよ。その彼の葬儀が、その斎場史上初めてこんなにも参列客が多いっていう。家族もこれぐらい来ると思いますって言って、式場の人も椅子を用意しといたけどその椅子じゃ足りないぐらい、あふれるぐらい人が来たんですね。親友の葬儀に。そのときにヤツのすごさを改めて感じたし、俺が死ぬときもこんなんだったらいいかなっていうかね。だから今、死ということを問われたときに、渡邊広樹という人間と出会えたことに対して「良かったな」って思ってくれる人が1人でもいたら、60年か70年か80年かわかりませんけど、その人生に意味があったのかもしれないなと思いますね。
ゆいぴ:
気持ちや心持ちの面で、こういう自分でありたいっていうのはありますか?
渡邊広樹:
譲れないものは譲らないっていう芯の強さ。例えば利用者さん、高齢者に対しての思いであったりとか、絶対曲げちゃいけないことは100人のうち99人が仮に敵だったとしても曲げちゃいけないなっていうのは思ってます。特に自分の仕事に対しては、高齢者介護に関しては特に曲げたくないし曲げちゃいけないって思ってますね。それはもう誰にも譲りたくない。だからそこがさっき言った三つのこと、この平和な日本を作ってきてくれた人たちなんだ、相手は年上なんだ、相手はお客さんなんだ、ってそれさえ忘れなかったら絶対に間違った介護はしない。良い介護は給料が倍になったらすればいい、給料が3倍になったらすればいいけど。でも間違った介護をしないことは今でもできる。それだけは譲らずにいきたいなと思ってるので。
さっきの葬式の話じゃないけど、僕が介護やお世話させてもらった高齢者のご家族が、例えばですけど僕の葬式に来て、うちのおばあちゃん渡邊さんと出会えたから最後何ヶ月だけど良い人生送れたよ、って娘さんに言ってもらえるとか。そこはなんか曲げたくないなってのはありますね。そこは頑固なんですよね。ちっちゃい頃のガキ大将的な部分であったり、自分の思いで学校のルール変えちゃったりとかっていうのもそうだけど、そこはもう頑固なんでしょうね、きっとね。
ゆいぴ:
海士町との今後の付き合い方についてはどうですか?
渡邊広樹:
海士町に来る前にここの関係者の人にお話したのは、約2300人、海士町の住民がいらっしゃると思うんですけど、2300の人が全員介護の資格を持っている島にしたいって思いを僕は語ったんですよ、役場の人に。そりゃ認知症のおばあちゃんが介護の資格取れるわけじゃないし、寝たきりのおじいちゃんが介護の資格を取れるわけないんだけど。でも2300人全員が介護の知識であったり技術であったりを持っていたら、「わがとこで看る」とか「わがとこで死ぬ」とか。この島で死んでいくっていうことを海士町の人たちって結構大切にしているところってあると思うので。全員が自分のおじいちゃん、自分の旦那さん、自分の家族親戚が老いたとき障害になったときに、少しでも介護とか福祉の知識があれば家で看ることも怖くないし、何かあったときにこっちも手助けできる。けど全くそういう知識技術がなかったら、家じゃ無理だからもう施設に預けよう、家で看たいけど、あるいはおじいちゃんおばあちゃんが家で死にたいんだといっても家族がいやいや家じゃ看れないからごめんね、って言いながら施設に預けちゃう。っていうことが減るかなって言う気はするので。
だから今、島留学の人たちもそうだし、子供たちもそうだけど、全員が介護や福祉に興味を持ってもらえる島にしたいなっていうか。パソコンの技術ってパソコンが必要ない人は必要ないですよね。でも介護の知識や技術って全員の人生に実は関係のあることで、絶対みんな年取るんですよ。絶対自分の身内が年を取るし自分も年を取るし、介護の知識とか技術って、自分のあるいは自分の家族の老いる予習ができると思っているので。例えばお父様お母様が老いたときに、私介護のことわからない…ってなるか、お父さんお母さんを病院にすぐ預けちゃったら、自分の老いが一番最初に来るかもしれないし。そのときに少しでも介護とか福祉の知識があればなと。僕が手術台に乗ったあのときの怖さってのはたぶん無知だったから、余計に何されるかわかんないっていう怖さで。でも老いることの知識とか技術が少しでも入っていれば、家族の老いとか家族の死とか、自分の老いとか自分の死に対しての恐怖とかも和らぐかなと思うので。海士町の、この島の人たちがこの島を愛する気持ち、この島で死にたいっていう気持ちに少しでも自分が本島で学んできた介護、約30年介護福祉の仕事してきてますけど、それが少しでも役に立てば海士町に来た意味があるのかなとは思っています。
そう考えると今ね、自分の存在価値に迷ってるのかもしれない。今までそれなりの役職、ポジションに就いていたけども、今の施設では当然自分の上司っていっぱいいるし自分は後から入ってきてるので。いくら介護30年やってたとしても後輩なので。同じように島に移住してきた同期もいますけど。だから今、自分の居場所が掴み切れていない不安はあるかもしれないな。変だけど、自分がその施設のトップになったらこうやりたい、あるいはこういう過去の経験を活かせるな、とかそういうのはあるかもしれないけど、なかなか下の立場だと難しかったりするじゃないですか。現在の僕は今、自分の居場所に迷ってるかもしれない。今日はそれを発見できた感じがする。
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ゆいぴ:
もしも、離島で介護の広告を見つけていなかったらどんな人生を送っていると思いますか?
渡邊広樹:
ここに来る前は障害者のデイサービスにいたんですけど。そのときにやっぱり僕は高齢者の方が面白いなって思ってたので、障害の施設もある程度経験積んだら、高齢者の業界に戻ってたかなっていうことと。あとは30歳ぐらいからずっと副業で専門学校の非常勤講師をしたりとか、介護を教える立場でもあったんですね。その立場とかそういうこともすごく好きだったので、現場で働きながらそういう仕事を人に教えるとか伝えるっていうことはやってたかな、きっと。
でもいろいろチャレンジしたりとか、何か一つのところにいつづけることはあんまり好きではないかもしれない。仕事もそんなに転々としてるわけではないですけど、これも学んでみたいあれも学んでみたいって。でもやっぱり高齢者福祉かな。その高齢者の福祉も、直接おじいちゃんおばあちゃんの面倒見る人もいればそこで働く人たちの教育をする人もいるし、いろんなポジションがあるかもしれないけど、たぶん高齢者のケアには携わってたかなと思います。
ゆいぴ:
じゃあ今後も海士町で介護のお仕事をしていく予定ではある?
渡邊広樹:
そうですね。どこまでやれるか。例えば来年の今も今の立場だとしたら、きっとつまらなさを感じてるかもしれないし。やっぱり最初に言った海士町の介護福祉の課題であったり、それを何とかしたいと思うわけじゃないすか。人間って良くしたいと思うし。だって自分の目の前で、ゆいさんが80何歳のおばあちゃんだとしたら、ゆいちゃんゆいちゃんって言われてるのを見て気持ち良くないわけですよ。若いスタッフがゆいちゃんって言ったり、食べこぼししてたら「何こぼしてんの!」って言ってる姿を仲間として見てて面白くないし嫌だし。ゆいさん、って言ってほしいし、この目の前にいるおばあちゃんを大切にしてほしいと思ってるので。語弊があるかもしれないけど、僕は海士町の介護をもう一度再考したいって思ってますし、来年も1年後も今の立場だったら、もしかしたら僕を必要としてくれるところに行ってるかもしれない。やっぱり自分を必要としてくれるところに。
さっきも言ったけど良いケアはね、給料3倍4倍になったらすればいいけど、間違ったケアはやっぱ許せないんですよ。それは僕の父親なり母親なりが、施設や病院でお世話になってるときに同じように母を馬鹿にするような介護が行われていたりとか、虐待まではいかないけどされているような姿を家族の立場として見てきたから。あなたが今、呼び捨てにしているその人は、あなたよりできないことが多いけど、僕にとってかけがえのないお母さんなんですよ。ってことは、目の前の人が誰かにとっては大切な人であることは間違いないので。だったら僕にとっても大切な人として接したいし、その人から見て僕のやってるケアが「うちのお母さんを大切にしてくれてありがとう」って言ってもらえる介護はしたいと思う。
たぶんどの人もそうですけど、必要とされたいですよね。マザーテレサの有名な言葉に「一番不幸なことは、誰からも必要とされないことである」っていう言葉があって。人間ってやっぱり必要とされるってことが一番、もしかしたら幸せなのかもしれない。10人のうちの1人でいるよりは、渡邊広樹だからいてほしいとか、あなたが必要なんだって言ってもらえるところで活躍したいなと思ってます。今はそれが海士町だと思ってるので、海士町で頑張りたいと思ってます。
ゆいぴ:
なるほど。そろそろ最後の質問を…。
渡邊広樹:
あんまり難しいこと聞かないでくださいね。
ゆいぴ:
最後に言い残したことを聞いてるんですけど、このインタビューを通して言い残したことでもいいですし、この記事を読んでる方へのメッセージでもいいですし、インタビューの感想でもいいですし、最後に何かあればお伺いします。
渡邊広樹:
うーん、なんだろうな…。若い人にしてもそうですけど、あなたに大切な人がいるように、あなたの周りの人にも必ず大切な人がいるんだっていうことは忘れないでほしいな。それが犬であるかもしれないし、奥さんかもしれないし親かもしれないけど、それを忘れなかったら世界から戦争がなくなるのかなって。今の日本の報道からすると、ウクライナが良い方でロシアが悪い方に語られてるけど、ウクライナだって結局ロシアの人殺してるんだから僕は同罪だと思ってるんですよ。戦いをしてる以上は。例えばですけど、プーチンだって自分の家族が殺されたら絶対悲しいに決まってるし、なぜ戦争するのって。自分の私利私欲のためで、他人だからですよね結局。自分の手を汚していないし。だったらゼレンスキー対プーチンでタイマン張ればいい、喧嘩すればいいですよ、ボクシングすりゃいいですよ。勝ったらお前の国のここ頂戴ねっつって、当人同士が戦えばいいだけの話なのに。それは自分の家族がそうなっていないからこそ、プーチンもゼレンスキーもやり続けちゃってるのかなって思う。
だから若い人たちもね、刃物持って「誰でもよかったから殺しました」とか「人の死ぬとこ見たかった」とか言ってね、いろんな訳わかんない事件が多いけど。あなたが殺めようとしているその人には、大切に思ってる人がいるとかね。あなたが叩いちゃったおばあちゃんを一番愛している人は絶対にいるし。そこは伝えたいかな。以上です。
ゆいぴ:
はい、ありがとうございます。
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インタビュー実施:2027/8/21@隠岐國学習センター
あとがき
普段は福島県磐梯町というところでインタビューをしているのですが、違った地でのローカルインタビューは新鮮でしたね。基本的に「町の良いところは?」とか「町について教えて」という質問はしないのですが、聞かずともその人の生活や暮らし、人生の中には海士町があって、そこに私自身も飛び込んでしまって、勝手に海士町の住民になった気でいました。なんだか、心地よかった気さえしますね。私もいつか海士町に必要とされたら、移住してしまうのかもしれません。
【インタビュー・編集・あとがき:ゆいぴ】
#無名人インタビュー #インタビュー #一度は行きたいあの場所 #この街がすき #離島 #海士町 #介護 #移住
この記事は海士町関連のインタビューです。
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