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行動の意味付けを自分で考えられない怖さ

「3人のレンガ職人」は、考えてみると恐ろしい物語かもしれない。
ほんとうに、3人目の男が正しいのだろうか?

スタンレー・ミルグラム著、山形浩生訳(2008) 『服従の心理』河出書房

読みました。

本書の全体を通したテーマは、まさしく服従の心理。

著者ミルグラム本人による、通称「アイヒマン実験」をもとに
「権威に命令されると、個人の倫理観に反する残虐な行為でも実行してしまう」という現象について分析されている。

本書を読んでいて、なぜかイソップ童話「3人のレンガ職人」を思い出した。

3人のレンガ職人

旅人が道を歩いていると、一人の男が難しい顔でレンガを積んでいた。

「ここで何をしているのですか?」
「見ればわかるだろう。朝から晩まで一日中、レンガを積んでいるのさ」

旅人が道を進むと、レンガを積んでいる別の男に出会った。

「ここで何をしているのですか?」
「大きな壁を作ってるんだ。家族を養うための仕事だよ」

旅人がさらに歩くと、また別の男が活き活きとレンガを積んでいた。

「ここで何をしているのですか?」
「俺たちは、歴史に残る大聖堂を作っているんだ! こんな偉大な仕事に関われて光栄だ」

旅人は、また歩き続けた。

寓話の解釈

この話は主に、目的意識の大切さを示すのに使われる。

雑用に見える仕事や大変な重労働でも、未来を見据えて目的意識を持てば、大きな価値とやりがいのある仕事に様変わりする。
そうすれば本人のモチベーションも上がり、飛躍的な成長につながる……というお話だ。

また寓話は、従業員に大きなビジョンを示し、信じさせることの大切さを経営者層に示す意図でも用いられる。

 

だが、「とにかく大きな目的意識を持つことが大切」という主張を、そんなにすんなり受け入れていいのだろうか?

大きなビジョンを心から信じ込み、光栄に感じることには、危険な側面もあるのではないだろうか?

そこを考える鍵となるのが、第11章の『状況を定義しなおす』の節だ。

『状況を定義しなおす』

本書の第11章「服従のプロセス 分析を実験に適用する」では、なぜ服従が生じてしまうのかを様々な観点から分析している。

ミルグラムによれば、人が「エージェント状態」(権威の言う通りに動こうとする心理状態)に入ると、
その人の物事の捉え方には様々な変化が生じ、まるで普段とは別人になってしまうという。

その変化のひとつが、『状況を定義しなおす』で説明されている。

またどんな状況も、一種のイデオロギーを持つ。
それは「状況の定義」と呼ばれ、ある社会的な場面の意味解釈である。ある状況の要素に一貫性を与える視点が提供される。
同じ行為でも、ある視点からだと凶悪に思えるかもしれないが、別の視点からだとまったく問題がなく見える。

人々は、正当な権威が提供した行動の定義を受け入れる傾向を持つ。
つまり、その行為を行うのは被験者でも、その意味を定義づけるのは権威となるわけだ。

「エージェント状態」に陥った人は、自分の文脈で行動を意味付けることを放棄し、権威による行動の定義を受け入れるようになる。

実験者という権威によって、被験者の行為が絶対に続けなければならない、科学の発展のために必要な行為と意味付けられるからこそ、
被験者は必死に抗議する被害者にも電気ショックを流し続けることができるのだ。

普段の状態でそんなことをしたがる被験者はほとんどいないにもかかわらず。

もしも、3人の収容所職員がいたら?

レンガ職人の話では、レンガを積むという行為に何ら加害性はなかった。レンガ積みと建築物(大聖堂)を建てるという目的のつながりも、客観的に見て何らおかしい点はなかった。

そのため一見、3人目の男は労働者の理想的な姿に見える。
実際彼は素晴らしい目的のために高いモチベーションで行動し、人の役に立っている。

だが、大きな目的を信じ、疑いを持たずにやり遂げられる性質は、権威による定義と結び付けば凶悪な行為をも可能にしてしまう。

 

先ほどの3人を例に、権威が凶悪な行為に素晴らしい定義を与えた場合のことを考えてみればいい。

目的意識をちっとも持たず、目先の指示された行為ばかり気にしていた1人目の彼は、もしかしたら
「異民族を何百人も殺せと命令されたんだ。おかしいから従わなかったさ」
と言ってくれるかもしれない。

2人目の彼は、罰を受けないため、生活の糧を稼ぐために、行為の中身は考えないようにして従うだろう。

大きな目的を信じて活き活きと仕事に打ち込める3人目の彼は、
「我が国家の繁栄のため、民族を浄化しているんだ! こんな偉大な仕事に関われて光栄だ」
と目を輝かせて答えるかもしれない。

行動の意味付けを他者に任せる怖さ

「人々は、正当な権威が提供した行動の定義を受け入れる傾向を持つ。」

例えば私たちは仕事でパンプスを履くのが当然のマナーだと思い込みがちだし、「女性がフォーマルな場でヒールのない靴を履くのは失礼な行為である」という定義を受け入れがちだ。

#Kutoo によって「本当にそうなのか?」と問い直され、「本人の健康を害する行為の強制はおかしい」と声が上がるまで、
当たり前のように、つらいけれど変えようのない自然法則のように受け入れていた人もいると思う。

 

権威を熱狂的に信仰し、強烈に内面化する人々ももちろんいる。彼らは権威による定義がどれほどあやふやでも、こじつけでも、コロコロ変わろうとも、権威による定義を絶対的に支持するだろう。

だが、彼らだけの問題ではないのだ。
権威に対して適度な疑いを持っていても、権威の命令を嫌だと感じる気持ちを持っていても、

それでも人間は、権威による行動の意味付けをいつの間にかインストールしてしまいがちだ。
そのことは、常にどこかで意識しておくべきだ。

行動の意味を考えない怖さ

行動の意味付けを他者に任せるのは危険だが、
だからといって、行動の意味を考えないのがよい訳ではない。

さきほどの1人目の彼は、もしかすると目前の行為の意味さえ考えずに、
「俺は扉に鍵をかけてボタンを押しただけさ」
と言うかもしれない。

あるいは、「何百人も殺したが、それは親方に命令されたからやっただけさ。俺の責任じゃないね」と言うかもしれない。

行動の目的や背景を考えずに言われた通りに動くのも、逆説的だが「意味付けを他者に任せる」ことのバージョン違いにすぎないと思う。

自分で考える

権威による定義を疑い、倫理観に反する命令に逆らえるためには、行動の意味付けを自分で考えるほかない。
それは人間の傾向に逆らう難しいことで、そう上手くいく場合のほうが少ないかもしれないけれど。

もしかするとさきほどの3人目の彼は、いつも大きな目的を自分で考え抜いた上で決めていて、
「これは大量虐殺であり、非人道的な行為に他ならない。少しでも多くの人命を助けることこそ、私の仕事だ」
と考えるかもしれない。

ときには権威の指示だけでなくルールにも背いて、被害者を匿い、国外脱出のためのビザを偽造するかもしれない。

それは多大な困難を伴う行為で、周囲に見つかれば罵られるだろう。権威にひどく罰される危険も高い。
当人にとっては、損害ばかりの行為かもしれない。

にもかかわらず、過酷な状況下でそういった行動に出た人たちがいたのは、
彼らが被害者を同じ人間だと考えたから。そして、自らの倫理観を、自分で考え抜いた大きな目的を、信じて貫いたからではないだろうか。

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