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2時22分の憂鬱⑤

欠かさず通っていたカウンセリングにも、とうとう行けなくなってしまった。予約をキャンセルするために病院へ電話すると、そのままカウンセラーに回された。

「どうしても辛い時は、無理しなくていいですよ。来てもらって対面でお話することが原則だけど、電話でのカウンセリングもできますからね」

私は言われるままに次回の予約を取り、直通電話の番号をメモした。


相変わらず、睡眠障害が続いていた。私はとにかく、何も考えずに眠りたかった。頭の奥がじんじんと、慢性的に痺れている。

コトンと気絶するように眠りに落ち、夢など見ないでぐっすりと、何時間も眠り続けていたかった。それが叶うなら、もう目覚めなくてもいいとさえ思った。

世界が終わる夢、街中が破壊される夢、廃墟に佇んでいる夢、長い長い葬列の夢。

それらに加えて得体の知れないモンスターが、悪夢にしばしば出てくるようになった。

それはある時は、緑色のドロドロとした形状だったり、メラメラと燃えさかる炎の化身だったり、または真っ黒な闇のようなものだったりした。

部屋の四方がじわじわとこちらへ迫り、見る間に空間が歪む。薬のせいか、アルコールのせいか、それとも併用しているからか。酩酊しているのか、覚醒しているのかさえわからない。

何もしていないのに、どこへも出かけていないのに、全身がぐったりと疲れている。狭い部屋の中を移動するのさえ、はあはあと息が切れる。

何日も着たままのTシャツには、いつ付けたかわからない、いくつもの染み。最後に食べたものが何で、それがいつだっのかも思い出せない。


このままでは駄目だ、と強く思った。仕事をしなければならない。

目標を立てて貯金してきたので、たとえ収入が途絶えたとしても、今すぐに困ることはない。それでも、いつまでも生活できるわけではない。

私は、まとまらない思考をどうにか整理して、何人かの、仕事を貰えそうな人の顔を思い浮かべた。

しつこくセクハラされて、怖くて離れた人。
あまりにも細かい仕事で、労力のわりには単価が安くて、消耗してしまった人。
多忙過ぎた時期にやむなく依頼を断り、そのまま疎遠になってしまった人⋯⋯。

頼み込めば、仕事を続ける道は、まだ残されているのかも知れない。そう思う反面、より一層、条件の悪い仕事になるのでは、と怯える気持ちが先に立った。

私は自分が、あまりにも弱いことに気付いた。組織に守られないことの不安が、一気に押し寄せてきた。

これまでどうやって、年上の大人たちと平気で渡り合って、一人前に仕事をこなしてきたのか不思議でならない。


「この後、二人で⋯⋯」
「部屋を取ってあるから⋯⋯」

軽い気持ちで囁かれるこれらの言葉に、私はこれまで、とても怯えてきた。

私にとってこれらの誘い文句は、心の奥底の深い部分をえぐられる凶器であり侮辱だった。

望んでもいないのに、性の対象として勝手に品定めされた上、基準をクリアしたから選んでやる、喜べ、感謝して従え、と言われているようなものだ。

冗談じゃない! 馬鹿にするな! と思う。私はここへ、仕事をしに来ているのだ!
それでも、もしも怒りをあらわにして、先方に逆切れされては仕事を失う。

誰に相談しても、モテていいじゃない、とか、挨拶がわりだと思って、などと言われ、本気で心配してくれる人はいなかった。

私はいつだって、純粋に仕事の成果で認めてほしかった。仕事を通して、一人の人間として承認されたかったのだ。

どんな職種も、どんな職場も、多かれ少なかれ似たようなものだったのかもしれない。女性が働くことが、決して当たり前ではなかった。セクハラ、パワハラという概念もなく、意識の極めて低い時代だった。

私は何と闘い、何に敗れ、何に怒り、何に傷付いてきたのだろう。

勝ち目のない闘いに敗れ続けた挙句、自分で自分を蔑み、憎み、切り刻んでいた。

処方薬も、アルコールも、ナイフも、決して私を救ってはくれない。それらはただ、自分を傷つける道具でしかなかった。


そのうちに、何とか閉店間際のスーパーに駆け込むことが、やっとの状態になってきた。

駅へ行って電車に乗ることが、どうしてもできない。

動悸がして息が詰まり、足がすくんで、改札を越えられない。改札の向こうには、恐ろしいモンスターが潜んでいた。

改札の向こう側と、こちら側。

それは、診察室の向こう側に坐るカウンセラーと、体中掻きむしった傷だらけで、ボサボサ髪で、いつ付けたかわからない染みだらけのヨレヨレのTシャツを着て、泣いている私。

そこには、目には見えない大きな境界線があった。境界線の向こう側には、私には決して行けないような気がした。

苦しくて苦しくて、動悸がする。
心臓の音がすぐ耳元で聞こえているみたいに、鳴り響く。
金魚みたいに口をパクパクさせているのに、満足な空気が吸えない。

やがて全身の力が抜けて、私はその場にしゃがみこんだ。何もかもが、もう限界だった。

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