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【機能を失った家庭】2.一人一人の価値観

何気ない雑談の中で、とうに成人した社会人の子どもがぽろっと口にした。

どうしたい? とか、どう思う? とか、人から聞かれるのが本当に嫌。

何食べたい? も、どこ行きたい? も。

そんなことは、どれだけ考えてもわからないし、考えること自体が苦痛だし。

AとBと、どっちが嫌か? なら、まだ答えられるけど、どっちがいいか? は、もうダメ。

子どもは、うんざりした顔で言う。

考えろ、考えろって、皆どうしてそんな辛いことを、無理やりさせるんだろう?

誰かが決めてくれれば、それに従うのに。


子どもは発達障害の特性からか、幼い頃からずっと、見本や手本のないことをするのが極端に苦手だった。

私は、そんな特性に直面するたびに、例を示すことと、過干渉とのバランスに悩み、これはさりげないリードなのか、支配になってはいないか、と、答えのない問いに追い詰められてきた。

私は子どもに、何としても、自分で考え、自分で決めて行動し、責任を持って生きる大人に育って欲しかった。

お前になんか、意志があるわけがない! と決め付けられ、黙って従え! 意見を言うなんて生意気だ! と恫喝されてきた私の、それは悲願でもあった。

だからこそ私は常に、自分がどうしたいか、どう思うか、を考えながら生きてきたし、それを考えることも、考えて決めることも、自分で決めて行動することも、全てが大きな喜びだった。

それは長い間、たくさんの敵と闘って、闘って、勝ち取った、私の大切な権利だったからだ。

自分で考えて決めることは、大袈裟に言えば私の尊厳そのものだし、生きることと同義語だ。それを手放すことは私にとって、精神の死を意味する。


けれども当然のことだけど、私と、子どもとは違う。

子どもと、もう一人の子どもも、もちろん違う。

誰もが皆、一人一人異なった価値観を持つ権利があり、それを選ぶことも、手放すことも本来、本人にのみ許される。


先日、会った若い人が、親に進学を反対されて悩んでいた。

自分で奨学金を申し込むから、迷惑はかけない、と言う彼女に、親は、奨学金は借金だからダメだ、と、決して許してくれないそうだ。

私の人生を支配しないで欲しい! 親だからと言って、子どものやりたいことを阻むのは許せない! うちの親はきっと毒親だ、と、言い募る彼女。

私には、その気持ちが痛いほどわかる。私も彼女の年齢の時、親から人生の選択肢を取り上げられて、同じように怒り、嘆き、身悶えするほどに悔しかったのだから。

けれども今、とうに大人になって、日々の生活と、それに伴う金銭的な負担や苦労を思い知った私は、彼女の親の言いたいことも理解できる。

卒業時に600万円もの借金を背負うことの、厳しさと苦しさ。学生生活は、奨学金では到底、足りない。いくつものアルバイトを掛け持ちして疲労を重ね、やがて学ぶ意味を見失い、意欲も損なわれていく未来が透けて見える。


それがたとえ無意識であれ、子どもを支配しようとしている親は、本当に多い。「あなたのためを思って」人生のコースを指し示し、「他人に迷惑をかけない」ように、コースから外れることを厳禁する。

私が長年、子どもたちに持ち続けてきた、自分で考えて、決めて、責任を持って生きて欲しい、という願い。それが価値観の押し付けであるのなら、大学進学は諦めて欲しい、というのは、身勝手な支配であり、コントロールなのだろうか。


誰かが決めてくれれば、それに従うのに。

自由にさせろ。支配するな。コントロールするな。

一見、真逆の言葉だけれど、私には、これらはコインの裏と表のように見える。

生きることのすべてにおいて、選ぶことも、手放すことも、私(わたくし)だけのものなのだ! という悲痛な叫びに聞こえる。


生きていてくれれば、それだけでいい。

私がいつか心の底からそう思えた時、はじめて見える景色がどこかにあるのだろうか。

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