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記号化される私と、私

こんばんは。
日記を毎日更新すると宣言して二回目、早くも期限を守れず日付を跨いで更新するという暴挙にでたADHD女(20)です。
前回よりはマジメに書きました、宜しく頼む。

今回は昨日の続きを書くので、
は?ナンソレ!?!?😲って思った人は昨日の日記を見てね。

昨日の日記では、
私が次郎ラーメンマシマシな毛量の長い髪の毛を切り、針葉樹林風刈り上げ短髪にしたことを報告し、髪を切ったのは私自身への抵抗であるという話をしました。

そこで今日は、髪を切るに至ったふとした疑問についてお話していこう。
それでは、ヒュイゴー😉☆彡(キモイカラッテミルノヤメナイデネ.…。

6/3今日の日記

自分を伝えるって難しい。


「あれ?私って何者なんだろうか?」
そんな普遍的な悩みが、髪を切るきっかけになった。
昨日の日記でも話したが、私は容姿も他者への接し方も、日本の文化的な女性像に合わせて生きてきた。日本の文化的なステレオタイプの女性像には、聞き上手で穏やかで控えめ、そんな特徴が挙げられると思う。


では、どうして私はそんな女性像に合わせて自分を表現してきたのか。
一言で言うなればそれは単純に、社会生活を営む上で楽だからだ。

この日記を見ても分かる通り、実際私は全く慎ましくもなければ穏やかでもなく、むしろ自己主張が激しくわがままでズボラな奴だ。
しかし、私はそんな自分を認めてもらえないだろうという漠然とした不安があった。心の中で、出る杭は打つ、控えめな方が美しいという日本人の社会的性格があると考えてしまっているのだろう。

そして当たり前に私の周囲の人たちは私を、柔和で控えめで素直な女性(自意識過剰)と認識し、それとして対応する。
私の本当の中身など知ったこっちゃないのだ。
さらに私はそれを意識し、社会によって形成されたステレオタイプによって、自ら作り上げた容姿やキャラクターを維持するために必死になった。
人間関係を良好に進めるためにやってきたはずなのに、結局自分の首を絞めてしまったのだ。

つまり私は、

社会に記号化されるのみならず自ら自分を記号化していた。

でもこれって難しいよね。

実際問題、日常生活のコミュニケーション程度では本当の性格なんて誰も求めてはいなくて、社会を上手く循環させるために各々にある程度の記号が付いていればいいのだ。
少し悲しいけどね(笑)

そんなことを考えていたら、急に髪を切りたくなった。
社会と自分によって作り上げられた、そして社会と自分を繋げている私の記号を取っ払いたくなったのだ。
つまり、自分自身に抵抗したい。
そんな気持ちになり、伸ばし続けていた長い髪を切ることになる。



ということで…お疲れさまぁあ!!(急なテンションの高さ)
今日はここまでにします。最後まで読んでくれてありがとう。
実際髪を切ってどうだったかはまた次回!さよなら~~☻





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