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“型”と自由

先日、同じ街に新しく越してきた日本人に帰国子女ですか?と聞かれた。

久々にこのワードを聞いたのでなんだか懐かしくなってしまった。日本にいた時も時々聞かれることがあった。その質問の背景にあった意図は分からない。

私は日本生まれ育ちで家族も日本人だ。正確に言えば、小学校に上がった年に一年間だけ父の仕事でイギリスに住んだことがある。その後、学生時代には奨学金をいただいて一年間ベルギーに留学した。それ以外の期間は日本で過ごした。

一風変わった家庭環境に育ったためか、はっきり人から日本人でないと言われたことも何度かある。

今までよく考察したことがなかったが、私の家族は先祖代々の家系図が書かれた巻紙があるような、ある見方をすれば非常に日本古来の型にはまった、あるいは重視する家であったが、そこにいる一人一人にフォーカスすると、すごく個性に溢れた愛すべき人々であった。

いわゆる企業勤めの人はおらず、皆好きなことを仕事にしていて、仕事をしていない人も各々趣味を持っていて、小さい頃から皆で集まるといつも話題が豊富でとても楽しかったという思い出がある。

それが日本人的でないと言わしめる性格を生み出したのか分からない。それが自由人だという意味であるなら、確かにそうだと思う。

ただ、その自由がいわゆる”自由の国アメリカ”が象徴する自由と一致するかというと少し違う。

“型”が根付く日本の家庭に生まれ育ち、そういう根幹部分を持ちつつ、自由を追求していると自分では思っている。往々にして、幹がなければ、どこに枝を伸ばしていいのか分からなくなるような気がする。

家庭の型はともかく、日本で育ってよかったことは間違いなく、四季を日々の生活の中に感じ、季節と食事が”旬”という言葉に表されるように直結していて、自然の恵み・神様の恵みがDNAに刷り込まれていることだと思う。そして旬の食材を一番活かせる調理法を人々が長い年月かけて”型”として確立していること。これは人間の根源的な幸せに繋がる素晴らしい文化だと思う。そういったものを身に纏って海外に来られたことをありがたく思う。

私が今住むこの地には心底美味しいと思えるものを提供してくれるお店が残念ながら見当たらないのだが、だからこそ自分で美味しいご飯を作ることができるということにしみじみ幸せを感じている。

自分や周りの人を幸せにできる一番身近な方法を教え、育んでもらった日本に改めてとても感謝している。そして日本で育んでもらった”型”をベースに自由を謳歌できていることにも。








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