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執着を捨てるとは、どういうことか?

みなさん、こんばんにちはようす。丸々です! (σ。ゝω・)σ*:.。.


今回は、本書『太陽の法』の解説に、およそ4日ぶりに入りやす!!!

第6章「エル・カンターレの道」のご紹介です(*´罒`*)

前回はこちらです👇

これから、3節「熱血のごとく赤く燃えよ」に入っていきます!



👉  本節では、執着を去ることの真実の意義と、執着を捨て去るための具体的修行論について、理解を深めていきたい。🤜


この世的な執着を断ち、熱く燃える人生を生きる

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執着を断つということは、人生における一大決意だといえます。つまり、永遠の人生において、幸福を保証する英断であります。しかし、このことは、人生を消極的に生きよ、後ろ向きに生きよという意味では、決してありません。執着を断つからこそ、積極果敢な人生が開けてくるのです。<中略>

すべてのこの世的な執着を断って、熱血火のごとく赤く、熱く燃えてこそ、真実の人生なのです。それでこそ、仏の子としての人生なのです。

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👉  「執着を去る」ことは、ともすると、厭世的(enseiteki)・消極的生き方のようにイメージしがちだ。しかし、にせものの自分を捨て、ほんとうの自分に目覚めることで、積極果敢な人生が拓けていく。🤜

この矢印↑↓の部分は、すべて『太陽の法』のこの章の部分の抜粋です📕

「執着(shuuchaku)のある人」とか言うと、イメージつかないと思います。。( ˘ω˘ ; )

たとえば、自分の地位や名誉、あるいは、他人と比べた年収などに執着する人。学校の名前や会社の名前に執着する人。見栄(mie)や虚栄に執着する人。これに執着し、この世の人々に評価されたことで、一体何になるのかとRO先生はおっしゃっております。この執着を持つ人は弱々しい人だともおっしゃっております。はるか彼方の、大宇宙の果てよりも、さらに偉大な根本仏から見れば、人間が持つ執着は、いかにはかなく、いかにむなしく、いかにとるに足りないか。


この認識力を持つことが大事なんですね( ˶ˆ꒳ˆ˵ )

執着とは、こだわり、わがままと言ったところでしょうか?!(「・ω・)「


これは「やりたいことをやるな!」と言っているのではなくて、「そのやりたいことをやる心が人さまを害するような心でなければ全然OK👍」ということです!

しかし、執着という性質は、人々を害する方向になってしまうので、「やりたいことがない人が間違っている」とは言い切れない部分もあると思います。( ´罒`*)✧

また、「仏に認められる人生こそ良き人生である」というご指摘を頂いております!


あの世にもって還れるものは心以外にない

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人間は、心です。魂です。ですから、死んであの世にもって還れるものは、あなたがた自身の心以外にはないのです。心がすべてなのです。死んであの世にもって還れるものは「心」しかないのだと気がついてはじめて、人間は開きなおることができるのです。

心しかもって還れないならば、せめて美しい心をもって還るしかないでしょう。では、美しい心とはどういうものでしょうか。もちろん、仏がほめてくれるような心です。

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👉  あの世にもって還れるものが心しかないのならば、地位や財産、名誉などに執着をしても意味がないということが分かる。それでは、あの世にもって還るべき美しい心=仏がほめてくれる心とは何か。それは、「愛に満ちた心」だ。(前掲書 p.306)🤜

結局、人間がこの世で築いた地位も、名誉も、財産も、死んであの世に持って還れるものではありません。この世の肩書きは、あの世で、もちろん通用しません。

日本の総理大臣と言われた人たちが、何人地獄に行って苦しんでいるでしょうか。人もうらむ大会社の社長が、何百人、何千人と、色情地獄、阿修羅地獄、あるいは、畜生道(chikushoudou)に堕ちています。

それは、生きていたときに、金もうけばかりうまくて、何人もの女性との快楽をむさぼった人間が、快楽のうちに人生を終えた人間が、そのわずか数十年の快楽のために、一体何百年、苦しみという代償を支払い続けているのか。これを知っているかどうかが本書に書かれております。

つまり、地獄は、むかし話や方便ではなく、実際にあります!厳然としてあるものなのです。

仏法真理を体得した人の目から見れば、あの世で苦しんでいる人々(地獄にいる人たちのことをさす)の姿は、金魚鉢(bachi)のなかの金魚を見るよりもたやすく見えてしまいます。そして、そういう彼らに共通するのは、この世に執着の多い人ほど、苦しみもまた深いということです。


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執着の反対は、なんだと思いますか。それは、愛です。なぜならば、愛とは、与えることだからです。他人を生かすために、与えつづける愛のなかに、一体なんの執着があるというのでしょうか。

ですから、執着を断つには、まず、愛を与えることから始めることです。

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👉  愛に満ちた心とは、与える心、生かす心、許す心、感謝する心のことだ。つまり、あの世にもって還れないものに欲望を持つのではなく、愛に満ちた心をもって還れるように、心を磨き、心を高めることにこそ、燃えあがるべきなのである。

次に、「信仰心」である。経典『君よ、涙の谷を渡れ。』では、「来世に持って還れるものは心しかない」という教えをさらに進化させ、「来世に持って還れるものは信仰しかない」と「信仰心」の重要性が強調されている。(p.62 参照)

「心がすべてである」とは、言い換えれば、「その人が心のなかで考えていること、思っていることがその人自身である」ということを意味している。この思いを美しいものにするのが、仏への信仰である。仏からみられても恥ずかしくない生き方をしようという毎日の決意が、美しい心、愛に満ちた思いをつくるのだ。

すなわち、「この世においても、信仰さえ持てば自分は幸福である」(前掲書 p.62)という境地を目指すことが、執着を断ち、「幸福を保証する英断」となるということを、しっかりと理解しておこう。🤜


仏が認めてくれるのは、愛に満ちた心です。つまり、そういう心を持って還れるように、心を磨き、心を高めることにこそ、熱鉄のごとく赤く燃えあがるべきなのだということでもあります。

本書に「執着を断つための愛の心」についてこのように書かれております。

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ですから、執着を断つには、まず、愛を与えることから始めることです。あなたは、お世話になったご両親に、何をしてあげましたか。兄弟に、何をしてあげましたか。また、お世話になった先生の期待に、こたえることができましたか。友人に何をしましたか。縁あって人生の途上で出会った人々に対して、一体何をしてあげましたか。隣人に、何をしてあげましたか。恋人に、何をしてあげましたか。妻や夫に、何をしてあげましたか。あるいは、子供を育てるときに、自分のご両親の苦労をどれだけ思い出しましたか。心のなかで憎んでいた人を許してあげられましたか。怒っていた心をしずめてあげましたか。仏の愛に、どれだけ答えながら、勇ましく人生を歩みましたか。

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本日は、ここまでとしましょう(๑¯ิε ¯ิ๑)

っということで、、いかがでしたでしょうか??!!

ご精読ありがとうございます(*>ω<*)ゞ

高評価よろしこす!!👍❤️👬✉️












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