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如来(nyorai)の悟り

みなさん、こんばんにチハようす。丸々です!!(* ´艸`)こんにち・・(∩´∀`)∩ワァ♪


全人類必読の書『太陽の法』の解説をして行きます(ノ⌒▽⌒) ♪

今日も『太陽の法 テキスト(概論)』の私なりの感想講義をしマス(*´艸`)!!

前回は「観自在の悟り」とは何かについてご紹介しました👇

まず「観自在の悟り」とは、心をピカピカにして不退転の心の状態を維持した「如心の悟り」(nyoshin)の次に来る段階として「観自在能力」があって、これは時空を超えた能力であり、「六大神通力」(jintsuuriki)そのものを得た人の悟りのことを意味します。

要するに、「阿羅漢の悟り」(arakan)+「如心の悟り」=「観自在の悟り」であると同時に、今回ご紹介する「如来」は、「阿羅漢の悟り」+「如心の悟り」+「観自在の悟り」=「如来の悟り」ということです。

では、まずこれを説明する前に復習ですが、「観自在の能力」とは一体なんなんでしょうか?ヒソヒソ(o'ー')('ー'o)ヒソヒソ

基本的な内容は前回の記事にてまとめましたが、補足説明として、本書 参考書籍『太陽の法』の第4章「悟りの極致」の第5節「観自在」には次のように書かれております(*≧∀≦)b


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観自在菩薩(kanjizai-bosatsu)は、インドの釈迦(shaka)の時代には、アヴァローキタ=スヴァラ(サンスクリッド語ではアヴァローキテーシュヴァラ Avalokiteśvara)と呼ばれておりました。観世音菩薩(kanzeon-bosatsu)も同義語です。まだ十分とはいえなくても、六大神通力を全部そなえるにいたった段階です。六大神通力とは、天眼(tengen)、天耳(tenni)、他心(tashin)、宿命(shukumyou)、神足(jinsoku)、漏尽(rojin)の六つです。ここで、そのそれぞれについて説明しましょう。

天眼(tengen)とは、いわゆる霊視能力のことです。生きている人間のオーラや憑依霊(hyoui-rei)はもちろんのこと、あの世の世界、実在界までを透視する力があります。

天耳(tenni)とは、あの世の霊たちの声を聞くことができる能力です。霊言能力なども、これにあたります。

他心(tashin)とは、いわゆる読心(dokushin)のことです。マインド・リーディング、つまり、人の気持ちが手にとるように理解できる能力です。

宿命(shukumyou)とは、単に自分の将来がわかるだけでなく、その人の想念帯を読みとれば、他人の運命、宿命(shukumei)が手にとるようにわかる能力です。もちろん、過去世のことまでわかってしまいます。

神足(jinsoku)とは、いわゆる幽体離脱のことで、肉体を地上においたまま、霊界を見聞きしたり、テレポーテーションしたりする能力です。

漏尽(rojin)とは、「心の欲(hotsu)する所(tokoro)に従って、矩(nori)を踰(ko)えず」と喝破(kappa)した孔子(koushi)の境地で、欲望に振り回されず、それを自由に超越する能力です。たとえ霊能力をもったとしても、丹念(tannen)に心の錆(sa)び落としを続ける精進能力です。

観自在菩薩とは、以上あげたこの六大神通力がなんらかの形で身についてきた状態の人のことです。同時に多人数の人の心を読んだり、遠隔地の人の心が手にとるようにわかる「如心」(nyoshin)よりも、一段と高い心境だといえます。

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テレポーテーションは未来的で、夢のようですね〜〜アハハハハ!(≧ε≦)ノ))ウヶルウヶル

まず、マインド・リーディングには、遠隔透視(enkaku-toushi)だったり、タイムバック・リーディングだったりして、人の心や出来事や過去の経歴などなどのすべての情報がすぐに分かってしまいます。これは六大神通力を持ってしまうとそうなってしまうということです。その能力を持っている人は、もしかしたら、、あなたの周りにもいるかもしれませんネwwwwwwww( *´pq`)クスッビクゥッ∑(゚ω゚ノ)ノ


ただ、この霊能力は簡単に持つことができません。これに目覚めるためにはかなり時間がかかるのが普通のことです。この6つの「神通力」という霊能力を持つには、前提として、正しい信仰を持って宗教修行を確立し、「人を愛し、人を生かし、人を許す」ということをよく実践し、高度な人間完成を目指していかなければならないということです!人間がこの能力を持つには自分の人生を一生に伏すくらいの長きにわたる高度な修行経験が必要です!

この6つの能力を持つことも普通はできないですし、できたとしても自分でできるんだと思い込みんで相手の気持ちが手にとるように分かって言ってしまったら相手を傷つけてしまうこともあるので、そうした迷惑をしないように常日頃に心がけて、基本的な人間としての平凡性だったり自助努力だったり報恩の心だったり、そうした神仏の心に近づいたマインドを獲得しなければ如来の境地は簡単にたどり着くことが難しいということを言っておきます。


またさらに付け加えるとするならば、漏尽(rojin)とは何かというと、本書において次のような意味が書かれていて、下記の通りです!


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通常、仏教の読み方としては「ろじん」を使う。「漏 ,ro」とは煩悩(bonnou)を意味する名詞であり、「有漏 ,uro」(心の汚れが残っている状態)、「無漏 ,muro」(心の汚れがすべて滅し尽くされた状態)といった使い方をし、「漏尽通力 ,rojin-tsuuriki」とは、煩悩を滅尽(metsujin)する能力と理解されている。ただ、煩悩を滅尽するには、日々の反省行が必要であり、霊能力というよりは、高度な智慧(chie)の力であるといってよい。なお、高度な霊能力を有しながら通常人と同じ生活ができる点に重点をおいて、過去に「ろうじんつうりき」という言葉を使ったが、今回から、正当な仏教用語に戻すことにする。

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この「煩悩」が、肉体への執着を手放して、自らが霊魂であることを自覚するために手放すべき感情を意味します。川のように風のように満月のように透明に生きる心こそ、自分自身が霊であることを知るきっかけになるのです。そして、一日一生の思いで生き抜くことが大切です!!今日一日を最後と思い、今日は何をなすか。それが分かれば、不惜身命で生き抜く大切さが分かると思います。

この「観自在力」と「漏尽通力」こそが前者である外側のベクトル(観自在力)と後者である内側のベクトル(漏尽通力)を示しており、この2つを両立して実践することによって霊能力を正しく使うことができます!しかし、これは人間の最終目的ではありません!!最終目的は神仏に近くことです!信仰心の獲得が人類最大の目的なのです!この霊能力は手段でしかありません。

っということで、、まず「如来の悟り」に入る前に、「観自在菩薩」が持つ、観自在力について見ていきましょう!Ωヾ(´ω`*)へぇ~へぇ~


では、この「観自在菩薩」の「観自在」とはいったい何でしょうか?!

経典『観自在力』にはこのように書かれております 桶!∑(´∀`d)


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観自在とは、古代のインド語では「アヴァローキテーシュヴァラ」と言います。「観自在菩薩」というように意訳されることもよくありますが、これは観自在菩薩という名の方がいるのではなくて、「そのような境地や能力を得ている高級霊(koukyuurei)がいる」、あるいは、「そうした高級霊が肉体を持った人間としている」ということを意味しています。

もちろん、地上を去った世界の「光の天使」といわれる存在たちは、ある程度、観自在能力を身につけているわけです。しかし、その内容にも程度の差があります。<略>

この観自在という言葉を定義するとするならば、「この世ならざる感覚で、あらゆる物事を見通す力」と言ってよいでしょう。

では、「あらゆる物事を見通す」というのはどういうことであるかというと、初歩的な力としては、いわゆる「読心力」「マインド・リーディングの力」になります。「人の考えていることが手に取るように分かる」という境地です。それ以外は、「地上にいながらにして、霊天上界の諸霊の姿や高級霊たちの生活のあり方が手に取るように分かる」という力もあります。

また、それ以外は、人の過去世(kako-ze)や未来世(mirai-ze)などを見通す「三世(sanze)を見通す力」としての観自在力があります。


そのような典型的な能力がありますが、ただ、それを特殊能力としてのみ定義するのが正しい定義ではなくて、「幅広い高度な認識力がある」ということと考えてもよいでしょう。観自在力がある人は、まず認識が非常に高まってきます。「高い認識力」を持っているのです。

それは、ちょうど、数千メートルの上空を飛んでいる鷲(washi)が、はるかなる上空から地上を眺めているような気分だとも言えましょうか。そのように、「はるかなる高みから世の中を見、すべてを見ていく」という認識力の高さが一つにはあります。

もう一つは、「認識力の広さ」ということです。認識の力が広範にわたっているのです。そして、いわゆる「一を聞いて十を知る能力」というものが備わってきます。人生相談などを受けても、「その人の事情や質問の内容を全部聞かなくとも、その一端に触れただけで問題の全容が分かり、解答の全容が分かる」ということになってくるのです。相手の問題点がいったい何であるのかが、あっさりと分かってしまうわけです。これは、「認識力の広さ」と言ってもよいでしょう。分かりうる範囲が非常に広いのです。

そのように、「認識力」という言葉をもってするならば、「高さ」と「広さ」の二つを兼ね備えていると言ってもよいでしょう。もちろん、「高さ」という言葉だけではなく、それを「深さ」という言葉で表すことも可能であると思います。

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このように「観自在力」を持つ上では、「本来の自分たちの姿」と「現在、肉体のなかに入って生きている自分たち」とのギャップを埋めるものとして観自在能力があります。その上で、「高度な霊能力を持ちながら平凡人として同じ生き方ができる」ということを持たねばなりません。この能力を持つと、周りの人からはなかなか分かりにくい姿ですが、明らかに地上の人間と違ってくるようになり、生きながら神仏の境地に近づいていくことになるんです。これを仏教では「即身成仏」(sokushin-joubutsu)に近い形だと言います。これは3次元を超える能力です。


では、「如来の悟り」に入ります!!

まず、テキストではこのように書かれております オォオォL(`д´L)



如来の悟り

👉  6次元光明界、7次元菩薩界、梵天(bonten)の境地を経ると、いよいよ8次元の悟りに到る。8次元までくると、人間的属性がかなり薄まってきており、「一即多・多即一」(issokuta・tasokuitsu)の悟りを会得している。🤜

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菩薩の境涯までは、魂に対する認識も、ある程度、人間としての姿、形にとらわれています。霊とは、本来、形なきエネルギー体であり、姿なき知性です。しかし、長年の転生輪廻の過程で、人間として数限りなく生まれ変わったために、人間的な形をした魂という姿にしばられる霊も多く、機能的には、本来の自由自在さを失っているといえます。<中略>

しかし、8次元の如来界に入ってくると、少し事情が異なってきます。如来界の人たちは、自分たちが、人体の形をした霊魂ではないことを知っております。それは、長年の転生の過程で、人体に宿ったという記憶でしかないのです。また、如来たちは、霊というのは、知性あるエネルギー体であり、姿、形なき光の束であることを、知識的に知っているだけではなく、生活実感としても知っております。<中略>

如来界人の悟りは、形なき実体として、自己認識できるまでの段階にきております。ですから、地上に住んでいる人間で、もし如来としての悟りを得ている人がいるとするならば、如来界の法則に気づいているはずです。

如来界の法則とは、「一即多・多即一」の法則なのです。つまり、この世界では、数でいう「一」というのが、客観的認識としてではありません。ですから、「一」かと思えば、それが「十」であり、「万」である。「千」かと思えば、「一」であったりするのです。客観的事実ではなく、絶対的な存在、すなわち、意識の作用の数だけの数が存在するのであり、それを統一する意識体のみが、その実態を知っているのです。

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👉  この悟りが、本テキスト第3章3節でも学んだ8次元如来の魂の構造ーー「統一人格をもちながらも、同一目的のためならば、必要な作用の数だけの分霊が可能」という仕組みの正体である。🤜


要するに、「ONE FOR ALL・ALL FOR ONE」(一人はみんなのために、みんなは一人のために)というキャッチフレーズに似ていますが、この「一即多・多即一」の本来の意味は、すべての人々を救うために個人の人間力で戦うということではなく、自らが分身の術を使うように、複数人の個人霊を創造して、人助けをすることができるということです!

また、この「一即多・多即一」は数学的に言えば、1や2や3,4,5…などのすべての数はすべて同じ一つの数字と同値(全数一致)であって、それはそうなるべくする条件が整えばそれが可能であることをも意味しております。その条件とは唯一なる神から分かれたものであり、その神の思いが人間たちという霊をつくったことを意味します。つまり、我々人間は神子・仏子なのです!ゥン((^ω^ )ゥン

ちなみに、本テキスト第3章3節のリンクを下記に貼っておきます。

では、実際に、菩薩と如来の区別をしておきましょう!

まず、人間には、手が2本あり、足が2本あり、着ている衣服もあって、目鼻だちもあって、自分を認識しえない人が、大部分の菩薩だそうです。これは、人間の姿をしないと、あの世で落ち着かないためです。菩薩は、徳性が高く、指導力も非常に高い方だと本書に書かれておりますが、どうしても、人間的な霊力の限界があると言うのです。

実際、如来は「姿かたちなきエネルギー体=霊」に知性的で、観自在力、漏尽通力を持った人間以上の方々です。そうした人びとが行く如来界という世界には何があるのでしょうか?『太陽の法』第4章6節「一即多・多即一」を読み進めるとこう書かれています。


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「八次元如来界というのは、ほんとうにすばらしい世界です。住んでいる人たちは、みんな、神々(kougou)しい。道路にはルビーがしきつめられており、建物のいたるところにダイヤモンドをちりばめてある。飲みものは、地上界にはないような馥郁(fukuiku)としたかおりがたち込め、テーブルはと見れば、これまた、輝くばかりのすばらしい大理石です。しかも、部屋の四角(yosumi)を支えている柱は、みごととしか表現しようのない水晶なのです」

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これぞ、最高級の光に満ちた高級ホテルにいるような黄金の贅沢空間であり、これは信仰空間を本流とした空間です。現代でいえば、「精舎」であるということです!

まず、如来界にいる人たちで、日本に生まれた京都学派の哲学者である西田幾多郎先生(1870年~1945年)という方がいます。みなさん、知らないですよね??(o'ω'o)モキュ?ww

実際、如来界にいる人々は具体的にどんな有名な人物がいて、どのくらいの人がいるのでしょうか?『永遠の法』第5章「8次元の世界」1節「如来とは何か」にはこう書かれております。


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霊界の人口は、一説では500億人を超えるとも言われております。しかし、その500億人ほどの霊人口のなかで、如来と言われている人の数は、わずか400数十名、すなわち500名たらずです。これだけしかいないのです。

そうすると、1億人に1人ということになります。ということは、現在の日本の人口は約1億2000万人ですから、確率的にいうと、そのなかに如来は一人ぐらいしかいないことになります。

もっとも、大きな法が説かれるような時期には、如来と呼ばれる方がたが集中して出てくる傾向があるので、地上でのその数は必ずしも特定できません。<略>

如来といわれる方は、やはり一つの巨大な山の頂きだからです。<略>

大きな文明の興隆期(kouryuuki)というのは、如来が競って肉体を持つ時代になります。

そうした時期としては、ギリシャでいえば、たとえばソクラテスのころがそうです。ソクラテスは如来ですし、弟子のプラトンも如来、プラトンの弟子のアリストテレスも如来です。<略>

古代中国では、孔子(9次元存在)、老子、墨子(bokushi)が如来です。こうした方がたが古代中国の文化をつくってきたのです。

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っということです。。

いかがでしたでしょうか??!!(○´I`)(○-ェ-)ウンウン

スピリチュアルな世界に引き込まれそうになりましたネ(笑笑)

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