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フクシマからの報告 2021年春    震災10年目の3月11日 被災現場に行った  津波犠牲者の墓参者に群がる     新聞テレビ記者の狂騒を目撃した

 東日本大震災から10年の2021年3月11日、福島県浜通り地方(太平洋沿岸部)のかつての「強制避難区域」の現場に立ってみた。そこでどんな光景が見えるのか、この目で見て、歴史の記録に残そうと思ったからだ。

2011年3〜4月、福島第一原発から半径20㌔の半円が描かれ、中にいた住民9万6561人に国が強制的に避難を命じたのはご記憶かと思う。

半円形に飛び地の飯舘村を加えた面積は858.4平方キロメートルである。これは東京23区の面積約626.7平方キロをはるかに上回り、香川県全面積の約半分である。

そこには同原発がある大熊・双葉町をはじめ、浪江、富岡、南相馬市小高区など12市町村が含まれる。同年4月22日には住民も入れない立入禁止区域として封鎖された。許可なく立ち入ると逮捕された。

それから10年が経った。国の除染が行われ、6〜8年の住民避難を経て、強制避難区域は徐々に解除された。しかし、今も帰還人口ゼロの双葉町をはじめ、住民は戻らない。強制避難区域全体の人口回復率は20%にとどまることは、本欄でもすでに書いた。

私は「地元の人々が戻り、3.11以前の暮らしを取り戻すこと」が「復興」の定義だと考えている。それに比すると、10年を経ても原発事故の被害はあまりに大きく、被害地は「復興」とはほど遠い状態にあると言わざるをえない。

 では、現地の様子はどうなっているのか。それを確かめるため、現地に足を運んだ。南相馬市小高区、浪江町など、地震津波の被害を受け、原発事故のために強制避難を強いられた場所である。そこを回ってみた。

 津波で犠牲者を出した地域は、あちこちに慰霊碑がある。できる限り多く、足を運んでみようと思った(下は南相馬市小高区井戸川で)

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 雑草が生い茂る更地に、花や線香、飲み物が手向けられていた。その祭壇で、震災前にあった民家や企業で、津波犠牲者が出たことがわかる。10年前に地上の建物をすべて津波が押し流したまま、周囲には何もない。そんな場所が、至るところにある(下は浪江町請戸)。

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 見たくないものも見た。

 浪江町の津波犠牲者が眠る町営墓地に行ったときのことだ。新聞のカメラマンやテレビの撮影クルーが30人ほど群がり、墓参者を取り囲んでいた。「もう一度手を合わせてくれ」と頼んだり、自分で持参した花束を撮影したり。墓地に眠る死者たちに対する敬意などなかった。

私もかつては朝日新聞社という全国紙で17年間記者として働いた。墓地に群がるマスコミたちは、かつての自分の同業者だった。それどころか、いま私は組織に属さないフリーランスの記者だが、報道を仕事にしている点では彼らと同じだ。私とて「取材」のためにそこにいるのだ。

 私は、マスコミ記者たちが狂騒を繰り広げるのを見て、混乱した。「もう一度手を合わせてくれ」と墓参者に頼む彼らには、死者への敬意や、家族を失った人たちへの思いやりというものが感じられないのだ。青やピンクの派手なハッピを着た女性が中継したり「死者を弔う場にいる」という厳粛さもなかった。「こんなことをして申し訳ない」という自省や遠慮の風すら見えなかった。同じ職業の者として、情けなかった。

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2021年3月11日の朝、宿を出た私が一番最初にしたことは、花を買うことだった。住民が戻らない地域なので、開いている花屋がなく、コンビニで買った(上下の写真は南相馬市小高区で)。

コンビニの花でいいから、慰霊碑に捧げようと思った。心ならずも津波でむごたらしい死を迎えざるをえなかった人たちや、その家族の気持ちを考えると、記者として以前に、人間として何かせずにはいられなかった。ほんのささやかなことでいいから、何かしたかった。

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しかし、墓地に群がるマスコミには、そんなことをする人はいなかった。その日の夕方のニュース、翌日の朝刊の締め切りに間に合わせるために「素材」を作りに来ただけ。そんなふうに私の目には映った。遺族が死者を悼み、記憶を新たにする場所が「ニュース製造工場」にされてしまった。

 今回はそんな苦々しい話をする。

(冒頭の写真は2021年3月11日、福島県浪江町の町営墓地で。以下、特記のない限り、写真は同日に烏賀陽が撮影)


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