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イスラエル軍医療部隊同行記【第5話】

~東日本大震災、日本初となる海外からの医療援助受け入れ事例となったイスラエル国防軍医療部隊派遣。とにかく紛れ込んで同行したカメラマンの記録~

2011年3月29日、イスラエル国防軍医療部隊による医療診療センターが正式に開所した。
朝一番で開所式が行われ、国や行政からゲストも来てイスラエル大使やメディアも駆けつけるということで通訳をする段取りだったが、前の晩にガソリンが不足するかもという話が持ち上がった。

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写真:イスラエル大使(当時)も現地到着。

あの混乱の時期、どこでもガソリンが不足していた。外務省や大使館を通じて医療施設で使うものだからとロジ班が各所手配に奔走した。ロジ担当のカルメルが「確保できたぞ」と駆け寄ってきたのが開所当日の朝だった。
ホテルを出ようとしていたときに受け取りの通訳を頼まれ、そのまま残っていたら開所式に間に合わないということが判明。

関西弁のお姉ちゃん兵士に通訳をまかせ、ガソリンの受け取りをすませると一足遅れて診療所へと向かった。臨機応変というか、即時対応というのがイスラエル人の気風である。

ちょうど開所式も終わっていたがメディアも残っており、つくなり通訳に駆り出された。こちらも撮影を兼ねていたので両肩からカメラをぶら下げ、機材バッグを背負っている。
メディアもカメラマンが急に通訳しだすもので驚いている様子だった。

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写真:佐藤町長とレントゲン技師

レントゲン室に患者第一号が来るからと言われ急いでそっちに向かうと佐藤南三陸町長が来所。あの津波の時に防災センターで九死に一生を得たが、そのときに脇腹を痛打していたとのことだ。レントゲンの結果骨には異常がないことが判明、休む間もなく対応し続けていた町長も安心した顔を見せていた。
 
それにつられてか、少し遠巻きに見ていた避難所の人たちも、少しづつ診療所をのぞきはじめた。イスラエルのユダヤ人はアジア、ヨーロッパ、アフリカ系と多種多様。しかもいかつい連中が軍服姿で聞いたこともない言葉で話していれば入ってきにくいのも仕方ないなぁ、と思わされた。

コンテナの指令室ではDMAT(災害派遣医療チーム)の日本人医師と地域医療の状態を確認。南三陸の医療施設は全滅、志津川病院に勤めていた医師たちも被災しているとの状況だった。発災直後にイスラエルは先遣隊を送っていたが、他国の軍隊や救助隊がすでに活動していたこと、医療施設が被災したこと、長期の避難と町の崩壊に伴う感染症などの健康リスクの懸念が高いことから救助部隊ではなく、今回の医療部隊による診療所開設を決断していた。

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写真:コンテナ内の指令室

翌日からは沿岸部へ訪問診療を行うことも決めて話し合いを終えた。
診療所にも少しづつ人が訪れ始めた。小児科、内科、外科、眼科、耳鼻科などの設備が整っており、通訳したおじいさんは「粉塵と花粉で目(まなぐ)がいずい(違和感がある)」とやってこられた。点眼薬をいつも病院でもらっていたのが流されてしまい、2週間なにもできてなかったという。炎症を起こしていたので眼科医が洗浄、点眼薬を処方した。

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写真:診療所に人がやってきだした。

なんども手を合わせて「ありがとう、さんきゅうさんきゅう」というおじいさんに医師たちも「アリガト」と言いながらお辞儀を返していた。
「お医者がちかくにいてくれるってのは安心できるもんだ」そういっておじいさんは避難所へ帰っていった。
初日、いろんなあわただしさの中だったが、医療団のみんなも手ごたえを感じた顔で一日を終えた。

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ー続くー

災害支援の活動費(交通費、PCR検査費、資機材費、機材メンテナンス費等)に充当いたします。ほんとうにありがとうございます。