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イスラエル軍医療部隊同行記 【第3話】

~東日本大震災、日本初となる海外からの医療援助受け入れ事例となったイスラエル国防軍医療部隊派遣。とにかく紛れ込んで同行したカメラマンの記録~

宿泊場所であるホテルの前に隊員一同がならび、団長であるベンアリエ准将を中心に日程の確認を行った。この日は診療所開設準備と物資の移送が任務だ。

ほぼ全員が今日初めての現場入り、途中資機材のピックアップや診療所開設までのロジ割り当て、自衛隊やDMATとの情報交換、自治体との挨拶などそれぞれが役割を確認した。

大型バスに乗りこみ、くりこま高原から南三陸町にむけて国道398号線をひたすらに走っていく。山間部はのどかな風景で、隊員たちもはじめてみる日本の光景に興味深々だった。

しかし、海に向かい標高が下がりだした地点から急に砂煙がたちこめ、それまで緑色だった車窓の光景が瞬時に茶色一色に変貌した。

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穏やかだったバスの雰囲気が一転してみな一様に押し黙った。

「これは、戦場でもみたことのない光景だ」

実務を仕切る産婦人科医で職業軍人でもあるオフィール大佐がそうつぶやいた。これまでもハイチやニュージーランドで救援活動を行ってきた彼らだが、津波の光景に圧倒されていた。しかし、そこが自分たちの任務地であると受け入れると急に精悍な顔つきとなった。

バスは拓かれたばかりの道路を走る。時おり自衛隊員が捜索をしている様子が窓から見える。指揮をとっていた自衛隊員がバスに目をやった瞬間に隊員たちは一同敬礼、自衛隊員も敬礼を返した。

そして診療所となる、志津川ベイサイドアリーナ避難所横の駐車場敷地へと到着した。すでに6棟のコンテナハウスが並び、日本国外務省の担当と栗原市の応援職員も到着、さっそく開設までの準備がはじまった。

工兵隊員たちはレンタルしてきた発電機を確認するとパイプを溶接して各コンテナに電源を敷き、通信部隊は衛星電話を広げて本国と連絡を取っている。

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今でこそイスラエルはサイバー立国として日本でも有名になっている。通信や医療、サイバーセキュリティ、そして自動車のオートパイロットシステムなど日本でも用いられているテクノロジーでイスラエルの技術が絡んでいないもののほうが珍しい。
四国ほどの面積しかないイスラエルは天然資源も乏しく、1948年の建国以来周囲は交戦国であり、長年アラブボイコットと呼ばれる経済封鎖を受けてきた。

そのため70年代から人材の育成プログラム、とくに電気工学やコンピューター、バイオテクノロジーなどに力を注いできた。90年代にペレストロイカが起きるとそれまでソビエト連邦から出ることができなかったユダヤ人が大挙してイスラエルを祖国と目指して移民、その中にはソビエトの頭脳となっていた技術者も含まれていた。それ以来、国家を上げてスタートアップ企業の後押しを行った。

それは医療の分野でも活かされており、今回の診療所も見た目はプレハブであってもカルテはすべて電子化され医療機器と通信ができ、診療各科で共有ができるようになっていた。日本の病院への紹介状の作成を行い、診療が完了したと判断されると電子カルテは個人情報保護のため消去される仕組みだった。

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1日の任務が終わり、夕礼のとき、ベンアリエ准将が隊員たちに語り掛けた。

「よく働いてくれた。私たちは医療の必要なところに医療を届けることが任務だ。そのための準備に見落としがあってはならない。引き続き任務に邁進してほしい。 そして、もう一つ大事なことは、私たちは医療とともに希望と勇気を持ってきたんだ。それがこの困難にある日本の人たちに何よりも力を与えるのだ。言葉を超えて通じるものなのだ」。

その言葉はそれからも深く、私の心に残るものだった。

ー続くー


災害支援の活動費(交通費、PCR検査費、資機材費、機材メンテナンス費等)に充当いたします。ほんとうにありがとうございます。