ユダヤ人の受難のパワー(なぜロスチャイルド家が誕生したのか?)③
ディアスポラの歴史
フランクフルトはユダヤ人への風当たりの強いところであった。
だが、こうした差別、蔑視はこの地域に限ったものではなく、ヨーロッパ全土で長い時間をかけて形作られてきたものである。
ユダヤ人の歴史は長く4000年ともいわれるが、ロスチャイルド家の物語を理解するためには、少なくともヨーロッパ各地に離散(ディアスポラ)してからの2000年を急いで振り返ってみなければならない。
民族の離散が始まったのはパレスチナのユダヤ王国がローマ帝国に支配され、西暦70年のマサダ砦の死闘と132年のバル・コフバの乱の二回にわたる抵抗の末、エルサレムのユダヤ神殿を徹底的に破壊されてからのことだ。
ユダヤ人のしぶとい反抗に業を煮やしたローマ人は、それからはエルサレムにユダヤ人が入り込むことさえ禁じた。
国を失ってヨーロッパをさまようユダヤ人はどこでも邪教扱いされた。
神に選ばれた民族としての誇りを支えに、頑強にユダヤ教と宗教儀式を守って同化しないことが、他民族を苛立たせた。
最も分かりやすい例でいうならば働いてはならない安息日は、キリスト教徒にとっては日曜日であるのにたいして、ユダヤ教徒は土曜日なのである。
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そのうちにキリスト教が広まって紀元前4世紀にローマ帝国の国教になると、ユダヤ人は神の子イエス・キリストをだまくらかしてローマ兵に渡して十字架に掛けたとして憎しみが煽られるようになっていった。
これがユダヤ迫害を激しいものへ変える起爆剤となった。
キリスト教の教父とされるアウグスティヌス(354〜430)は、ユダヤ教徒には永遠にキリストに背いた報いを味わせるべきだと述べた。
※ローマ・カトリック教会がキリストの死をユダヤ人全体のせいにしたのは誤りだったと訂正し、バチカンとイスラエルが基本合意に調印して正式にキリスト教徒とユダヤ教徒が和解したのは実に1993年12月である。
離散したユダヤ人の歴史は大別して二つに分かれる。
それはローマ帝国、あるいはイスラム帝国を西側に散ってイタリア、スペイン、ポルトガル、北アフリカのアラブ諸国に移り住んだ人々で『セファルディ』と呼ばれます。
これに対してフランス、ドイツ、ポーランド、ロシアなど北方に移り住んだのが『アシュケナジ』(ヘブライ語でドイツの意味のアシュケナースが語源)です。
このセファルディとアシュケナジ、それぞれが言葉に尽くせない辛酸を舐める事になります。
ユダヤ人が常に迫害されていたわけではない。北アフリカからスペインまで広大なイスラム帝国が形成されたときには、ユダヤ人はその才能と資金力を支配者に重用され、商業ルートを握って繁栄を謳歌した。
とくにスペインでは多くのユダヤ人が経済面や医学、文化面で活躍し、大臣にまで登りつめた人もいた。
ユダヤ人はこれを“黄金のスペイン時代”と呼んだ。
しかしキリスト教徒の十字軍が始まった頃から風向きが悪くなる。
エルサレムの奪還に向かう十字軍(第一次)の通り道になった北方のライン川沿いで1096年、キリストの敵を殺すのにエルサレムに行くまでもないと12000人のユダヤ人が殺された。
以降、キリスト教徒の心にそれまで以上にユダヤ人に対する憎しみが刻み込まれて、ユダヤ人襲撃事件が頻発するようになる。
ローマ教皇は1197年と1215年の教書でユダヤ 人がキリスト教的な職業につくことを禁じ、ヨーロッパの王侯たちに、居住のユダヤ人には黄色いマークをつけてキリスト教徒と区別するよう求めた。
異教徒に印をつけたのはアラブのカリフ、オマル2世(在位717〜724)が最初で、キリスト教は青、サマリタン(ユダヤ教から分離したサマリア派)は赤、ユダヤ教は黄とそれぞれに異なったターバンを巻かせたと言われる。
これが4世紀後の勅令で、ユダヤ人に対してのみ復活したのである。
・・つづく・・
【参考文献】『ロスチャイルド家』横山三四郎(講談社現代新書)
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