【読書メモ】『増補改訂版 なぜ欧米人は平気でルールを変えるのか ルールメーキング論入門』(著:青木高夫)
本日(2024年8月27日)のニッポンジャーナルは、江崎道朗さん(情報史学研究家)、中川コージさん(戦略科学者)がゲストでした。相変わらずに機知にとんだ興味深いお話がてんこ盛りでしたが、その中でも、有料部分でのお話されていた内容となってしまいますが、江崎先生が仰っていた「経済安保の議論を進める中で大きなコンセプトの一つが"日本はルールを守る側ではなく、ルールを作る側に回ろう"と道筋を整えている、ここ10年(安倍さん、菅さん、岸田さんと継続して)は特に」とのお話は印象的でした。
そして今現在でも、(政権や官僚は)国際的な協議の枠組みに積極的に入って、日本抜きで国際的なルールが作られないようにしようと汗をかいている。いわゆる統治機構改革を頑張っている。日本はとかくやられっぱなしとよく言われるが、成果を出している点はきちんと評価したい。その上で、この一つが「自由で開かれたインド太平洋」として昇華されているといった感じの内容で、、
こちらをうかがって思い出したのが『増補改訂版 なぜ欧米人は平気でルールを変えるのか ルールメーキング論入門』との一冊。読書会などでお世話になっていた方の旦那様の著作で、2009年に出版された『ずるい!?なぜ欧米人は平気でルールを変えるのか』の増補改訂版との位置づけとなります(本書は2013年出版)。
つい先日のパリ五輪でも「柔道」での誤審等々が話題になっていましたが、そこにもつながるような問題提起を既になされていたのも思い出しました。ふと、「日本は"国際スポーツとしての柔道"のルールを作る側として"柔道"に携わっているのだろうか」と気になってしまいましたが、、実情は全く知らないので機会があったら探してみようかな。
「プリンシプル(原理・原則)との差異を踏まえた上で、ルール(手段・手続)作りへの参画することが大事」との骨子は2009年版と同じです。今回はそこからさらに考察を深めて、まさしくこれからの日本と日本人の闘い方を描こうとされている一冊と、感じました。
スキーなどのスポーツや車やバイクなどのビジネスの事例(青木さんはホンダで長らく働かれていた方です)を上げながら、「勝ちすぎは社会を豊かにしない」し「ルールを支配したからといってずっと勝ち続けられるわけでもない」と、その後の結果まで踏まえて述べられていて非常に説得力がある内容となっています。
例えば、1998年長野五輪直後のスキージャンプのルール改正に対し、なんとも後味の悪さを感じたのは私自身も今でも覚えています。ただ、その後の結果を中長期的に俯瞰すると、体型的に日本人と変わらない方が結構勝利しているとはなかなかに意外で、「ルールは成長の糧になる」というのを考えさせられた事例でもありました。
その上で「1チームが勝ちを独占しては面白みがなくなってビジネスとして成り立たなくなる」とされています。これ、身近では日本のプロ野球を見ていると納得してしまうんですよね。WBC等が盛り上がった一方で、その波及効果が日本の国内リーグにはいまいち見て取れないかな、と、いまでも感じることが多いですから(サッカーやバスケ、バレーなどの選択肢が増えたとの点もあるのでしょうけど)。
大事なのは「自身を含む社会の成長(公益)」で、これは「プリンシプル(原理・原則)」でありそうそう変わるものではない。しかし、この原理を最大限に実現していくための「ルール(手段・手続)」は適宜変えていくべきだろうとは、双方の区別ができているからこそ、なんて風にも考えさせられたのを覚えています。
ルール(法)はその時代の状況に則して変わっていく、これは「法治」の理念を生み出した古代ローマの時代でも同じで、その系譜を受け継いでいる欧米であればごく当たり前の感覚なのかなと。
翻って日本はというと、、一度決まったモノはオイソレとは変えないとする傾向は強いと思います。これがプリンシプルに対してであればよいのでしょうが、問題はルールをもそれと混同して不変のものとしてしまっている点でしょうか、特に戦後レジームの枠組みの中ではその傾向が強くなっていると思います。
むしろルールという枠組みを守ることにだけ汲々として、肝心の「日本人としてのプリンシプル(美学)」を見失いつつあるのではないでしょうか。「仏作って魂入れず」とはよくいったもので、戦後のGHQ内部の共産主義勢力の横暴などをあらためて思い返し、痛感させられたりも。
その戦後教育を例にとってみると、日教組などの敗戦利得者の暗躍もあるでしょうが、古来より連綿と受け継いできた日本らしさが、完全に断絶されてしまっていたと思います。そのルールの一つともなっていた戦後の教育基本法ですが、こちらは2006年に戦後初めて大幅に改正されています。
少なくとも旧法よりは日本人としてのプリンシプルを伝えられるような、そして生涯をかけて実現していけるような教育の実現が可能になったとは見ていたのですが、、あれから20年近くが過ぎ、少しは"涵養"されるように変わってきていると信じたいところです。
仮にルール作りで一時的に後塵を拝しても、次の機会を見据えて公益に資するルール作りに継続的に参加していく必要があると思います。その指針になるのは「公益」になるのでしょうが、それを実現していくには、自身のブレない「プリンシプル」も大事なのかなと。
そのためにも、日本人としての「プリンシプル」を次世代に伝えていきたいですし、その場の一つとなる「教育」はやはり大事だな、と。その意味でも、日本という国の成りたちや在り様を「大きな物語」として語り継いでいきたいところです。
イギリスの歴史学者、アーノルド・トインビーはこう言っています。「12~13歳までに民族の神話を学ばなかった民族は、例外なく滅びている」と。公教育の場で「日本の神話」を学ばせようとしない、この一事を持ってしても敗戦利得者と呼ばれるヒトビトの目的としていたところがよくわかるかと、、やはり竹田先生の『国史教科書』は手元に置いておかないと、かな。
今の日本は、先の大戦後の日本が参加できずに作られた「ルール」に縛られていると思います、教育しかり、憲法しかり。安倍総理が2006年の初登板時から言い続けられていた「戦後レジームからの脱却」、これは「"ルール"を作る側に回りましょう」と読み替えることもできるのではないでしょうか。
内外問わず、日本に限らず、制度疲労を起こしているルールは山ほどあるかと思います。勝ちすぎず負けすぎず、バランスを取りながら、正々堂々をルールを作り、潔く守っていくことが、ひいては公益(社会的有用性の発露)にもつながっていくのかな、なんて思いながら。
その上で今度の自民党総裁選、このあたりの視座もきちんと踏まえておきたいかな、と。少なくとも「日本にとっての公益に資するルール」をつくれるかどうかは、「皇統破壊(女系容認論者)」、「法的根拠のない私的TFやらかしに頬かむり」、「先人の習律を足蹴にする参議院議員のまま立候補」、「左右問わずの党外のファシスト勢力と懇意にする」を持ち合わせている方々では無理でしょうから。
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