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証明などいらない。あなたの可能性は無限大。

「歴史」と聞くとどのようなイメージを思い浮かべるでしょう、また、中学や高校での歴史の勉強(日本史や世界史)を面白く感じたことありますか、、私自身、大学では史学科(近代国史学)だったのですが、正直、中高では面白いと感じたことなかったです(その割になぜ史学科を選んだのかは、今でも“衝動”としか言えなかったりしますが)。

年号や人の名前などの少し調べればわかること“だけ”を覚えさせられて、概ねそこで嫌気がさして離れてしまう、といったケースが多いのかな、と個人的には思います。いっときは歴史離れなんて言い方もされていて、息子の中学での授業参観での日本史の授業の様子もまぁ、似たようなものだった感想です(違ったらすいません)。

なんてことをたまに考えると、もう10年以上前の本となりますが、北川智子さんの『ハーバード白熱日本史教室』は面白かったなぁ、と。題名だけ見ると、この少し前(2010年頃?)に流行っていたマイケル・サンデル教授の「ハーバード白熱教室」と被ってますが(編集の方が狙ったのかな?)、同じハーバードでも、少々変わった経歴の持ち主となります、北川さん。

大学では数学と生命科学という「理系」を専攻されていたにも関わらず、何故か大学院で歴史学を修めて、最終的にはアメリカ人相手に日本史を教えることに、面白い流れです。その授業も最初は5人10人でのスタートだったのが、最終的には200人を越える位の人気クラスになったとのことで、どうにも不思議な「物語」となっています。

一貫しているのは「大きな物語」を作ろうという想い、それを科学的に体系化しようとするとの理念(印象派歴史学とのフレーズは定着してないようですが)。それは、一つ一つの「事実」にのみ拘泥するのではなく、自分で構築した「真実」を元にして全体を印象的(インプレッション)に俯瞰して「自分の歴史観」を構築していくという試み、、当時の(今もかな?)歴史学会のお偉方に喧嘩を売りつけるような「物語としての歴史」へのアプローチの一つになるかと思います。

一例として日本人にあてはめて考えれば、「日本のイデオロギーを目に見える形で作る事」となりますか。イデオロギーとのフレーズだけなら小難しくもなりますが、「日本とは、そして日本人とは何か、という質問に対し、自分なりの答え(考え)を構築すること」といえば、少しはイメージしやすくなるでしょうか。

さて北川さん、ハーバード大での講義は二つ、もたれていたそうです。

一つ目は、女性の視点から歴史を紐解いている「LADY SAMURAI」。主役は戦国時代の覇者の一人・豊臣秀吉の正室で、北政所ねね(ねい)。戦国時代、主役はあくまで男性で、女性は時には結婚の道具に過ぎなかったと言われるくらいに、男性目線の歴史観が根強いです。

ここで一つ疑問を投げかけているのが、、例えば秀吉。南は九州から東は関東まで、全国津々浦々に戦っていたわけで、実際には自分の領国にいないことの方が多いのに、それで領国経営が回るかというと決してそうではないことは、想像に難くないと思います。ましてや、今と違って手紙一つやりとりするのにも、かなりの時間がかかる環境下において。それを踏まえてか、戦国時代の領国では夫婦は共同の統治者「ペアルーラー」として、どちらもが尊敬の対象になる存在であったとの見解を述べられています。

女性は決して「サムライ」のお飾りな存在だけではなかったと、、確かにねねさんは、秀吉の死後、騒乱を防ぐためにいち早く徳川家康の人質として動くくらいの果断さ、胆力を持ち合わせていました。また、秀吉が合戦での出先からねねに、統治のことで相談している手紙も残っているそうで、非常に興味深い視点だと思います。他にも、信長が秀吉に向けた手紙の中で「ねねさんを大事にしなさい」と伝えているとの話もありますね、そういえば。

ふと思うのは、どうして日本ではそういった研究が広く出てこないのかな、との点(最近傾向が変わっていたらすいません、、)。北川さんが仰っていた「サムライだらけの土壌に女性の話を植え込んで全体像を書き換えようと挑戦した歴史研究家が未だいない」とは、なかなかに興味深い視点です。他にも、塩野七生さんの『ルネサンスの女たち』でも同じことが言われていて、、一応、男の身としてはなかなかに肩身の狭さも感じてしまいます(耳にも痛い)。

個人的には、万人が納得できる「事実」が最優先されるという傾向の悪い面が出てるのかな、とは。歴史なんてリアタイできるものでもないのだから、「事実」に対する個々人の「真実」という名の解釈のぶつけ合いくらいでいいのに、とか思いながら、、これは何も日本に限った話ではないのかな、、少し気になります。

二つ目は、京都の100年をアクティブ・ラーニングで体験させる「KYOTO」。こちらは、人格を持たない都市の歴史を題材にして、学生が主体的に入り込んでいけるような構成としています。なお、アクティブ・ラーニングとは「座っているだけの聴講スタイルを超える体験型の授業」とのこと。そんなわけで、参加する学生は自分自身の言葉、感性で「京の100年間(1542-1642)」にアプローチしていきます。

まず「地図」を読み解くところから始まり、信長、秀吉、家康の統治を経て容貌を変えていく「京都(KYOTO)」を追体験していきます。その手法は様々で、クイズ・ミリオネアのようなショー形式からラップなどの音楽形式、そしてタイムトラベルなどなど。講義の後期に入ると「外交」という織糸が入るようになります。京都を軸にした外国との関わりに枠が拡がり始めるのですが、そのアプローチ方法が面白い。ラジオと映画を学生自身に作らせるという、自身が学んだことを自身で表現させる形になっています。

これは「歴史事実を貪欲に学び、自分なりの解釈を持ち、そして自分の言葉で日本史を説明する」との思いからの発露で、「北川さん自身の解釈は踏み台にすぎない」とまで言いきっています。そして「そんな風に得た知識と印象は、将来アメリカを背負っていく学生たちへの種蒔きにもなる」としているのには正直、痺れました。まさしく、歴史学の社会的有用性をみいだしていると感じたからで、「実際に国益に貢献しうるような歴史学の試み」として、日本史にある種の外交官的役割を付加しようとしています。そして、人ではなく都市にその機能をもたせようとしているのは、今でも面白いと思います、観光にもつながっていきますから。

歴史学に限らず、一定水準の根拠に基づいた解釈という名の「真実」を議論との形で昇華させることなく、単純なお気持に依拠した「事実」を並べて終わってしまうだけであったら、それは、根拠に基づいて自分の言葉で考えることを放棄することになります。そんな学問なんて「社会的有用性」を見失ってしまうでしょう、、下火にもなります。なんて、E・H・カーが「本当の事実と言う魔法」との言い方で鳴らしていた警鐘を思い出したりしながら。

「事実」は一つとしても、それに対する解釈という名の「真実」は人それぞれですよ、と、個人的には。これはつきつめると多様性の認知と他者の許容、寛容にもつながると思います。グローバル化が叫ばれ始めて久しい昨今、そして、アイデンティティが無いと言われることの多い日本人、少しでも「自己を確立」するための大きな物語をつくる一助ともできるのではないかなぁ、なんて、あらためて感じています。

歴史はただただ覚えるものではなく、自分の考えを根拠を持って創っていくための素材、そういった意味では教養の一つでもあるかな、と。これは何も歴史に限らず「学問」であればごく普通に持っていることだとは思います。また、学問であるからには「社会に還元してこその学問」との視座も大事だな、とも。基礎学問として歴史学を学んだ一人として、当時非常に面白く、興味深く、そして頼もしく感じた一冊でした、、あ、根拠なくお気持だけで考えを押し付けて異論を排斥・否定してくる「ド文」は問題外ですよ、、念のため。

この先、「普遍的価値(法治、自由、人権など)」の共有は大前提としても、日本以外に様々な価値観がある多様性(グローバル社会)の中で生きていくには、自分を見失わないこと、アイデンティティの確立が大事でしょう。例えば「歴史」を題材に自分の考えを磨いて見る。興味を持ったことに対して、自分なりの見解を自分の言葉で付与する、そうすることで調べ方も深くなりますし、自分の言葉で話すことで、議論もできるようになる。

当たり前かもしれませんが、その積み重ねは自然と「アイデンティティ」につながる、これは「学問」なら至極真っ当な流れでもあります。そう考えると、歴史も自分を表現するためのツールの一つです。全体を俯瞰しイメージを、「大きな物語」を構築するというのは、他の分野にも応用が利くと思います。自分の考えを持つとのことですから。

なんて、「海外への留学も興味あるんだよなぁ」なんて言い始めた息子(理系)に対し「普段、(両親に似て)面倒くさがりのわりに珍しい」と思いながら、、本当に留学をするのであれば、こちらの『ハーバード白熱日本史教室』は薦めてみたいですね、、『ローマ人の物語』や『歴史とは何か』、『センゴク』辺りとあわせて、まぁ、大学に合格するのが先なんですが。

「No proof needed; your possibilities are ∞(Infinity).」 - 証明などいらない。あなたの可能性は無限大。

出典:『ハーバード白熱日本史教室』

いいフレーズだと思います、若者にはこのくらいの言葉を贈らないと、なんて。

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