【読書メモ】『歴史とは何か(旧版)』(著:E・H・カー / 訳:清水幾太郎)
初めて手に取ったのは確か、大学1年時(1994年・ナリタブライアン三冠の年)の最初の史学概論でのテキストにて。著者E・H・カーさんの1961年のケンブリッジ大学での講演録を基調にしていている一冊です。日本での初版が1962年ですから、訳語としての言い回しも古く、正直とっつきにくい部分もあったのを今でも覚えていますが、内容としては今でも古びてないなぁ、、と。
といった点は、私にとって非常に肚落ちのする内容で、今現在(2024年)にいたっても、各種の物事に対しての考え方とか、折々での立ち位置への基礎になっていると思うことも、しばしば。
自分なりに解釈すると、歴史とは、一つの「事実」とその「事実」に対する解析や、議論の積み重ねの結果としての様々な「真実」の集合体、であって、「事実」とは人の行為の結果の積み重ねでしかなく、「真実」とはその行為への「真の動機(原因)」に直結するもので、こちらは多様性が前提となる、くらいでしょうか。
そういった意味では、とある寄稿のなかで塩野七生さんが述べられていた、、
なんてことにも共感しながら、、「知識」を集約しただけでは社会で生きていく上ではさして役に立たない、「生きた学問」として活用していくためには、今現在への「社会的有用性」の模索も必要、なんて風にも考えているなぁ、とかをあらためて実感してみたり。
またこれは何も「歴史学」に限った話ではなく、科学(science)することを前提とする学問すべてに求められていくのかな、とも思っています。
そういった立ち位置にいると「歴史的な事実(事象)を今の価値観で裁断する」のには懐疑的で、あくまで、どうしてそのような悲喜劇が起きたのかを、当時の価値観をベースとした事実の積み重ねからの見解(真実)で分析していくに留めるべきと考えています。間違っても、100年前、1000年前の出来事を、今現在の価値観で裁断してはいけない、それでは原因を見誤ることにしかつながらない、とも思います。
これは、法学でいう「法の不遡及」とも通じるかと。また日本であれば織田信長による比叡山焼き討ちとかが一例としてあげられるかな、とも。個人的には、信長時代の価値観になぞらえれば、焼き討ちは妥当、むしろ自衛のためには必要であったと思っています。だからといって、今現在に同様の状況に置かれても、信長と同じ手法をとることを単純に是とはしないでしょうけども。
なんてことを、共産主義や無政府主義のテロ集団(日本だと日本赤軍とかが該当しますかね、イスラエルで無差別殺人を起こした重信房子氏が率いる)が、銅像破壊、言論統制などで過去の歴史を無かったことにしようとしてるのかといった動きに対して、「人の営みとしての歴史に対する冒とくであり、挑戦である」との怒りを感じながら。
折々で、歴史学とは私にとっての基礎学問だなと思い出させてくれます。2022年には新版も出されて、やはり古びてはいないよなぁ、とも感じている一冊ですが、、果たして理系の息子が受験後に興味を持つことはあるかどうか、少し実験的な気分で、とりあえずリビングに並べてみたりもしています。
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