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私は誰? はざま(間)に浮かび上がる存在

こんばんは。
Reiです。

自己表現についてのおはなし(導入)

今日は、中学の時から仲良しの友達(Hちゃん)に会いました♡
中学2・3年が同じクラス、高校は同じ合唱部で同じパート、大学生の今はサークルが一緒です!
気がつけば7年目。たくさんの思い出を共有している、とても大切な人です。


人間離れ(自分が自分じゃない感覚)になってから10日以上経ち、さすがに慣れました。(笑)
だから、今日はnoteを読んでもらわなくても、自分の言葉で話すことができました。ちょっと自分の成長を感じます。


ここ数日間で、他者評価を過度に気にする自分から抜け出せたことや、「生かされている」という感謝の気持ちを持ちながら過ごしていることを伝えました。



今日は「自己表現」についての哲学対話をしているようでした。
似ている部分と全く違うところがあって、話せば話すほど、共有しようとすればするほど分からなくなって、想像力をフルに働かせて、脳を使いまくる時間でした。
最高に楽しかったです!

感覚の話もかなり多くて、言語化すること自体が乱暴な気もするのですが、私は言葉にしないと認識できないのでトライしてみようと思います。


共感覚 ー音と色


Hちゃんは、もやもやとした気持ち、心にある何かをにして自分で受け止めることが多いそうです。(ここからして、私にはないもの…!!)



(Hちゃんの言葉の奥にある無意識(感覚)の部分をHちゃんが言葉にして、それを私なりに受け取って、そこから自分の言葉に翻訳(?)して書いているので、実際のものは分からないですが、、。違うのが自然だと思う。言葉の限界、、。)




その時の気持ちを和音にしてみたり。
そして、音が色で見えると言っていました。
高校の時の部活にも、共感覚を持つ人がいたけれど、Hちゃんもだったんだなぁ。

音だけじゃなくて、数字や漢字にも色や漠然としたイメージがあるそうです。
これは世間一般でなんとなく抱かれているイメージとは全然違うものらしい。

Hちゃんが言葉にならないものをどうにか言葉にして教えてくれた言い方を借りると、「愛」は光沢、黒い、とか。
ハート、loveのようないわゆる一般的なイメージとはまた違う、Hちゃん独自のマイワールドがそこにはあるよう。

でも、そのオリジナルのイメージは他者にはなかなか理解されないため、その〈内側〉は常に持ちつつ、他者と話すときは〈外側の自分〉「一般的な価値観」が前面にあるようです。

そして、〈内側〉である「Hちゃんオリジナルのイメージ」は言語化されていないそう。
自分で(Hちゃん自身が)認識する、にとどまっている。
他者に届いたとしても、それはきっと言葉ではなくて音楽なんだろうな。

「共存」と「一体化」 ー開いたままの〈内側〉

私ともう一つ大きく違うと感じたのは、〈内側〉(魂)(無意識)の扉が閉じないということ。
曇らせることがないらしい。
これは母にも言われた。

「そこが曇るってことがないんだよね。曇らせようと思ってもできない、強く存在しているから。」
Hちゃんと母が似ているかは分からないけれど、私とは大きく違う部分だ。




社会から求められる自分、役割を果たす自分は〈外側〉で、そちらを優先しなくてはならない場合もある。
私の場合、〈外側〉に重きを置くと〈内側〉が曇って目指すべき方向性をすぐに見失ってしまう。

けれども、Hちゃんの場合は、〈外側〉〈内側〉どちらも自分、という感じで、いなくなる、薄くなるということがないそうだ。
2人で生きている感覚に近いと言っていた。

〈外側〉が〈内側〉に寄り添うことはある。
歳を重ねるごとに〈外側〉と〈内側〉が離れて行っている感じがすると話してくれた。

一方、私はどちらかにウェイトを置くと、どちらかがおろそかになってしまう。
別個のものが共存しているというよりも、溶け合うイメージ
だからどちらか一方になってしまうと、自分の一部分が失われているようで「私が私でいられない」という思いが湧き上がってとても虚しくなる。

これはHちゃんと話していて浮かび上がってきた2人の違い。
「Reiちゃんの場合は、〈内側〉が閉じてしまう(曇る)と苦しいけれど、両立しているときは1つって感じがするね」とHちゃんが言った。

「たしかに~!」
〈外側〉と〈内側〉の境界線がない感じ。
境界があったとしても限りなく薄い
のだと思う。

〈外側〉〈内側〉は何を指す?

そこから、外側には何が含まれるのか話をした。
Hちゃんの視点ではどんな感覚なのかをきいた。

外側→脳 思考 私
内側→もともとあったもの 死後も残る


細かい部分は違うかもしれないのだけれど、ざっくり書くとこんな感じ。
私はすごく感動した。「思考」は〈外側〉に含まれる点について。

ずっと〈内側〉を曇らせて、〈外側〉に重き(アイデンテティのようなもの)を置いていた私は、〈内側〉を主体としようとした
すると抽象の世界(哲学など広い事象)に魅せられて、今度は〈外側〉の領域である具体性への関心が薄れた。

「自分はなぜ自分(Rei)なのか」「生死の不思議」「善く生きるには?」
そういった大きな問いへの関心は強まったが、大学の授業など、もっとミクロな物事への興味が持てなくなり、その結果授業の受講をストップさせてしまった。

両極端な態度だ。
こうして見つめてみると、とても偏っている。




さらにHちゃんは、〈外側〉〈内側〉それぞれに表裏があると話してくれた。
人にあんまり言えない好きなもの、は〈外側〉の裏面。
〈内側〉の好きは言葉にはなっていなくて変動性がある、とか。



〈外側〉〈内側〉二面性の意識は常にあったけれど、四面性は新鮮な概念だった。

Hちゃんにとって、〈外側〉〈内側〉どちらか片方になることはない。
「どちらも私」と言っていた。
〈外側〉〈内側〉のツールは一緒。
繋がりはするけれど、一体ではない。あくまでも二者のまま。
〈内側〉は言語化されないから(音や色のイメージ)、言葉を介した対話ではなく、二者で状況は共有しない。

他者のことだからこんなにもざっくり、簡単にまとめてしまって申し訳ない気持ちもあるのだけれど。。




この二者〈外側〉〈内側〉の間では調和が保たれているみたい。
だから喧嘩したり、ぶつかり合ったりすることはないのか気になったが、そもそもその概念がないようだ。

自己表現の仕方は、それ自体がオリジナル


私はとても簡単なメロディなら階名が分かるかも、というレベルで、音感はほとんどないに等しい。
そんな私は言葉を介して自己表現をしている。
音楽を聴いて、あるいは絵画をみるときなど、
インスピレーションを得て、想像を膨らませるときも、無意識に言葉の力を借りている。

私にとってはこれが当たり前だが、Hちゃんにとっては言語化が遠いため、新鮮に映るようだ。(私が和音を紡ぐHちゃんに驚いたのと似ているだろう)

私はこれこそが持って生まれた個性だと感じた。
無意識と意識の交信、やり取り、往復。
その方法が人の数だけある。

写真、絵を描く人、音を紡ぐ人、文章、陶芸。

それこそが「私」のオリジナリティだと思った。



〈外側〉〈内側〉どちらかに本体があるのではない。
この二つを行き来するはざま(間)にこそ、私が浮かび上がる。

初めての感覚を得た。



自己表現をする中にこそ、私が現れる。


〈外側〉〈内側〉の境目を超えた、溶け合う瞬間。
こうしてnoteに文章を書いたり、他者と対話したり。
学校の勉強も、新しい知識を自分の既存の経験と融和させて新たな気づきを見出すその過程にこそ、「私」が存在する。

〈外〉と〈内〉のはざまに在る「私」

やっっと辿り着いた。
20年かかった。
形ない私。固体ではなく、液体のようにつかみどころのない私。

それでも表現には強烈に私の個性が刻まれる。
私の魂の性質と、外側で積み重ねた経験の結集が表現だから。
つかみどころがなくても、それは何よりも自分らしい。

こうして〈外側〉〈内側〉どちらも対等に見つめ、どちらも内包(一体化している)し、この中間に位置する「私」として今文章を綴っている。
これを書いている間に「私」は「私」を自覚する。

だから〈外側〉の行動を通してしか「私」を自覚できないのだ。
この世にいる限りは。

もう自分が誰だか分からなくても不安じゃない。
〈外〉にも〈内〉にも依らない。
というより、この2つは本体ではなく素材に近い。
何か生産的、能動的な行動を起こすたびに、私は新しい自分に出会える。
それが何よりも嬉しい。
生きる喜びだ。

つかみどころのない「私」、中間に位置する「私」
初めて「なる」ことができた。
頭でイメージするだけでなく、そこに実際に位置している感覚がある。
思考を技術に落とし込めた感じ。

Hちゃんの感覚は私の持つそれと全く違うものだった。
だから、想像には限界があったけれど、自分なりに一生懸命思考を巡らせることによって、ヒントをもらうことができた。
本当にありがとう。

コロナの状況にもよるのだけれど、春に旅行に行きたいねと話している。
またおはなしするのが楽しみだな!!

それでは。

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