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#仲間と作る本 ~介護する人、される人 みんなが笑顔で暮らせたらいいな ~


母に怖いものはなかった。
母はいつも強かった。

お化けや幽霊が出たらどうしようと
暗闇を怖がる私に

そんなの、怖くない。
母はいつも笑ってそう言っていた。

母の異変に気が付いたあの日。


その日、父が急逝した。


朝、普通に元気だったのに
夜には、父の顔に白い布がかぶせられた。


その夜、家に隣接している小屋に
何かを取りに行こうとした母が

ひとりでは怖いからと孫(私の三女)に
一緒に行こうと話していた。

母が「怖い」って?


また、母は、父のいびきがうるさいからと
数年前から一人で部屋に寝ていた。


ところが、その夜、
部屋に一人でいるのは怖いから
孫に一緒に寝てくれないかと話していた。


これはおかしい。

母が「怖い」を連発している。
母が「怖い」なんて言葉を使うのは
天地がひっくり返ってもあり得ない事。


私は三女と一緒に
その夜から10年間、母の部屋に寝泊まりした。


母は、これまでの人生で
長男(私の弟)を病気でなくしている。


我が子の葬儀をする
こんなつらい事はない。


その悲しみから18年が過ぎ
突然、父が亡くなった。


母は少し前から
物忘れの傾向があったが
それは年のせいだと思っていた。


配偶者の死。


父が亡くなったことで
母の認知症のスイッチが
強い力で押されてしまった。


今日は何月何日何曜日?

その日から母は一日に何度も
私たちに聞くようになった。

そして、「月曜日だからごみの日だ」と
言っていた。

覚えている
まだ大丈夫

きっと母はそうして
自分に言い聞かせていたのだと思う。


しかし、父の三七日法要の頃、母は
既にお金の管理が出来なくなっていた。


そして、母の頭の中では
私が母のお金を盗んだ
という事になっていた。

私の顔を見るたびに
「金を返せ」と叫んでいた。

ご近所の親しい奥様達に母は
「娘にお金を盗られた」と言いふらしていた。

お財布や通帳・印鑑の置き場所が分からなくなり
その度にみんなで探した。

仏壇の引出・箪笥の中・靴下の中・
農作業のポケットの中・靴の中

信じられないところから母のお金は見つかった。

やっと見つけても
すぐまた母はどこかにしまってしまい
自分がしまったことを忘れて
私が盗ったと言ってくる。

私が現金を渡すと母はすぐにどこかへしまう。
私に盗まれると思っているのだろう。

そして、数秒後にはまた
私に「まだお金をもらっていない」という。


日中、母はスーパーへ買い物に行った。
だから毎日私にお金を要求する。

母にとって、お金とは1万円札だけ。
毎日1万円を渡していた。

ある日、持ち合わせがなくて
なけなしの3千円を渡したら
「こんなはした金」と言われた。



またある日、母は農協に行って
「娘に通帳と印鑑を取り上げられた」と訴えた。
夕方、支店長さんから
私に電話が来てその事実を知った。

夜、仕事から帰って
家の中を見回すと凄い事になっていた。

包丁が、まな板が、ボウルが、たわしが
仏間、お風呂場、居間、玄関
いろいろなところに置かれている。


母が認知症になり
我が家の常識は崩壊した。


夜になると母は特に凶暴になった。
力任せで閉めた戸のガラスが割れたこともあった。

母は眠れないと私に訴えた。

少しずつ変わっていく自分に
不安がいっぱいだったのだろう。

不安とか怖いとか心配とか
そういうマイナスな気持ちを
今まで出す人では無かったから

激しく変わっていく母が
不憫でならなかった。


私は仕事・家事・3人の娘たちの学校の事・
母の対応でクタクタだった。

毎日疲れ果てて私は床に入る。

母は毎晩私の枕元に来て

「私は眠れないで困っているのに
お前はよく眠れるなー。」と、わめき散らした。


私はその頃、転職して2年位だった。
仕事を一日も早く覚えたい
上司からの期待にもできる限り応えたい

だからかなり無理をしていた。


あと数分でお昼という時に上司から呼ばれ
急ぎの仕事を頼まれる。

また、上司の話は結構長い。
とても勉強になるお話ばかりなのだが
1~2時間は続く。

拘束時間9時間のうち、
3分の1を上司の話の時間に
なる事はしょっちゅう。

だから、その分、本来の仕事が遅れる。


昼休みもゆっくり休めない。
残業が続く。
家に帰ったら母からの非常識な攻撃を受ける。


寝不足のため、日中、集中力が落ちる。
仕事がつまって休日出勤をする。


クタクタだった。
会社を休みたかった。
身体を横にしてぐっすり寝てみたかった。

でも、会社を休んでも家に帰れば母がいる。
だから、私は休める場所がなかった。



私は慢性的な寝不足だった。
車で通勤途中、赤信号で止まった時

まばたきをするつもりで
一瞬目を閉じると
グッと意識が深く落ちることがあった。

一瞬で深い眠りに入ってしまう。


だから、赤信号で止まった時は
なるべく目を閉じないよう
瞬きをしないように気を付けた。

しかし、それでも急に
グッと深いところに落ちていく時があり
何度、後ろの車のクラクションで気が付いたことか。

あの頃、よく事故を起こさなかったと思う。


そんな日々が続き、私はストレスによる
突発性難聴で入院した。


母も私も疲弊していた。


私は困り果てて、かかりつけ医に
「介護する側もとても大変です
どうすればいいでしょうか」と相談した。

しかし、医師は
「ご本人が元気ならそれでいいじゃないですか」
としか言ってくれず、薬はいつも通り
認知症の薬である、アリセプトしか処方してくれなかった。


その後も母の症状はどんどん進んでいった。

母は本心から暴言を吐いているのではない。
病気がそう言わせていると私は分かっていた。


母の言動にほとほと困っていた。


母に殺意さえ感じる時が何度もあった。


ある日、母があまりにも非常識な事をいうので
カーッとなった私は、
母の首を絞めるしぐさをした。

両手で大きく輪を作り、
母の首周りに手をやった。


冗談のつもりだった。

母は目をぱちぱちして私を見ていた。

私は冗談でも
首を絞める真似をしてしまった自分を恥じた。


このままでは、私はいつか
母を殺してしまうかもしれない・・・。


それから私はこの思いに憑りつかれてしまった。

本当に不安だった。
自分が信じられなかった。


介護する人が殺人を犯したニュースを見ると
罪を犯した人に同情する自分がいた。


私は会社では優しいおばさんなのに
家では平気で母を叱っている。
どっちの方が自分なのか?

もしかして私は、多重人格?


母に辛く当たった後は必ず自己嫌悪に陥る。

だから自己肯定感はゼロだった。


自分は気が弱い。
いつもめそめそしている。
介護はつらい毎日だった。


でも、死にたいとは思わなかった。
なぜか。

それは、生きたくても生きることができなかった
弟を最期まで看たから

弟の死は私にとって
「生きろ」というメッセージだ。


私には母、夫、3人の娘たちがいる。

私が死んだら苦しみはそこで終わるが
残された家族がその後
数十年間辛い思いをする。


自分が楽になれたら
周りがどうなっても関係ない
そんな思いは私にはない。


このままではいけない。
母も私もダメになってしまう。
何とかしなければ。

どうすればいいのか?

考えた末に
専門家に話を聞いてもらうことにした。

そして私は
地域包括支援センターへ相談に行った。


センターの方は
何度も頷きながら
私の話を聞いてくださった。

当時、私の身近に介護をしている人がいなかったので
私の介護の悩みを真剣に聞いてくれる人は
今までになかった。


自分の悩みを話す
それだけで心が軽くなるのが分かった。

私の長い長い話が終わって、
センターの方から
「それでは試しに病院を変えてみましょう」
とアドバイスをいただいた。

私は、今までお世話になってきた病院を変えるのは
医師に対して申し訳ないと思った。

でも、現状を変える為に私はアドバイスに従った。


これまでの母の状態を詳細に書面化し
それを新しい病院へ提出した。

そして、新しい医師にお会いした時に
更に自分の気持ちを医師に話した。


母が夜眠れないと訴えている事に対しては、
ぐっすり眠れるようにと
導眠剤と胃薬のようなものを処方してくださった。

朝はアリセプトと他に2種類のお薬。


新しい先生が処方して下さった
お薬を飲んだその日から
なんと不思議な事に
母の凶暴性は消えた。


奇跡だった!


あんなに眠れない夜が続いたのに
久しぶりに静かな朝を迎えた。


そして、ぐっすり眠れた母は
もとの穏やかな性格に戻った。


母が眠れるようになったので
私も少し気持ちが楽になった。


地域包括支援センターに行って
病院を変えたら
薬が変わって
そして、母が落ち着いた


気持ちが落ち着いてきた私は
苦しみながら介護をするのは
やめようと思った。


今までは、散らかす母の後ろについていって
いちいち片づけているイメージだった。

だから、やってもやっても終わらない。
達成感なしで
お互いに、ただただ疲弊していた。


もっとテキトウでいいじゃないか。
楽にやろう。
笑って介護をしよう。


会社の仕事は手を抜くことができない。
だから、その代わりに
家の事は手抜きをしようと決めた。


茶碗はすぐに洗わなくてもいい。
ちょっとくらい散らかってもいい。

散らかっていたって死ぬわけじゃない
ということにする。

どんどんテキトウを広げていったら
気持ちが楽になっていった。


理想はあるけれど
今はそれを求めていたら
自分が潰れてしまう。

自分を守るため
家族を守るため
テキトウな世界を私は肯定した。


子どもの成長が楽しみな育児とは違い
介護はゴールが見えないトンネルの中を
とぼとぼ歩いていくようなもの。



介護の秘訣は「テキトウ」。
頑張らない。
テキトウで広げる優しい介護。

優しい介護は私の永遠のテーマです。

残念ながらその答えが出ないうちに
母は逝ってしまいました。

弟、父、伯母、そして母、4人を看取り
「生きる」とは何かを考えさせられました。


介護する人、される人
みんなが笑顔で暮らせたらいいな

これからも小さな勇気で世界を変えたい。


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最後までお読みいただき、ありがとうございました。

【皆で作る感動、感謝のエピソード本】
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の発起人の拓さんの企画に賛同し、参加させていただきました。
ありがとうございました。


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