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BAR自宅、即席サングリア

 バーには黒猫がいる。
 テーブルの向こう側に座る、真っ黒ツヤツヤの毛並みと金色の目、くたくたのやわらかい体が自慢の、ねこが。

 金曜の夜、いつものバー、自宅。
 今夜の彼女が手にしたのは白ワインのボトルだった。
 だがそれは先日ひと口飲むなりぎゅっと顔をしかめてしまった、好みの味ではないワインだ。ワインが好きだと言いつついつまでも銘柄や好みの産地を覚えない彼女は、いつも適当に買ってきては味の好みに一喜一憂している。たとえ口に合わなくても捨てるだなんてもっての外だし、かといって料理に使って使いきれるほど自炊はしない。
 いつものように顔をしかめながら飲み干すのかと思いきや、彼女の機嫌は良いようだった。
 黒猫は不思議に思いながらそれを見ていた。
 マスターといえどバーメイドのやることに口を出せるわけではないのだ。
 お気に入りのテーブルの上には食事も並んでいる。バゲット、千切っただけの野菜のサラダ、白身魚のソテー。それからコンソメのスープ。まあ白ワイン用のメニューといえるだろう。細いグラスにほんの少し注いだワインを飲みながら、まずは食事を済ませてしまう。
 食器をキッチンに下げ、それからいつものアッパーライトをつけると本格的なバータイムが始まった。
 部屋の照明を落としてグラスとボトルを真っ白なテーブルにセットする。そして小ぶりな黒い皿の上に、小瓶からざらりと何かを盛りつけた。
「いいもの買ってきたんだ」
 白い結晶をまとった鮮やかな色と爽やかで甘い香り。
 オレンジピールだ。
 砂糖で煮詰めて砂糖をまぶして甘くほろ苦く仕上げたそれを、彼女はにこにこと見せびらかしてくる。
「これがあれば、口の中でサングリアみたいになって美味しいんだって」
 友達に教えてもらったんだ、と言いながら改めてワインを注ぐ。よく冷やされていたそれがグラスをうっすらと結露させ、淡い葡萄酒の色をいっそう蕩かせた。
 いつもの指定席につけば彼女はバーメイドから客へと変わる。
 オレンジピールをひとつつまんで、味わい、それからワインを口に含んだ。その表情がパッと明るくなる。どうやら口に合ったらしい。ならばマスターたる黒猫に言うことはない。客の満足はマスターの満足である。飼い主の満足は、猫の満足である。

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