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私のヒーローを探して

先日、とにかくでっかいふろふき大根を食べる機会があって。
ケーキカットのように切り分けていたら、ふいに古文の授業中に読んだ「大根に助けられた話」を思い出した。

あるところに、大根を毎日食べていた人がいた。
ある日彼は、人気のないところで暴漢に襲われてしまう。
ところがそこに突如二人のお侍が現れて奮闘し、敵をやっつけてくれた。
あなたのお名前は?と問うと「あなたが毎日食べている、大根です」とのこと。
彼の信心深さが、こんないいことをもたらしたのかもね。

ざっくり書くと、たしかこんな話だ。
地蔵も鶴も恩返しをする世界とはいえ、食べものがわざわざ捕食者を助けにくるというのはなんとも不思議で、妙に記憶に残っていた。
そんな話を一緒にいた人たちに話したが、彼らは習った覚えがないという。
世代の違いなのかもしれない。

ちゃんと出典を調べようと家で検索してみたら、吉田兼好『徒然草』の第68段と判明(貼ってあるリンクは、『徒然草』を全段訳した吾妻利秋さんのサイト)。
それによれば主人公は、「大根を万病の薬である」と信じて、毎朝二本ずつ焼いて食べていたという。

大根を、焼く?
最初に気になったのはそこだ。
大根といえば煮るか生食か干すのが一般的だと思っていたけれど、彼は焼いていたらしい。

ふーん。
ちょうど家に1/6本ほどの大根があったので、焼いてみた。
フライパンにオリーブオイルを引いて大根を炒めて醤油と生姜で味をつけ、仕上げに炒りごまを絡める。

大根炒め

茹でた大根にはない、ジャクジャクとした食感が楽しい。
焦げた醤油の香りも、いい感じに食欲をそそっている。

でも……。
これはどう考えても、ご飯のお供だ。
これを毎朝二本分も食べるなら、それはもはや主食を超えている。
食べたあと普通に仕事したりデートしたりできるのか、とても不安だ。

昔『いきなり!黄金伝説。』というテレビ番組の中で一週間同じ食材だけを食べ続けるという企画があったけれど、あのルーツはここだったのか!(たぶん違う)

それにこれは私の勝手な想像だが、おそらく彼の調理方法はもう少しシンプルなものだろう。
丸のまま焼いた大根をざっくり切って、塩か味噌をちょっとつけて食う、おそらくそんな感じなんじゃないだろうか。
食事を用意する人はすごく楽そうだ。
でも自分も付き合いで毎朝二本食べなきゃいけないなら、それはちょっと嫌だなあ。

この「大根」は今とは大きさが違ったかもしれないし、「二本」の数え方が私のイメージとは違うかもしれないのだけれど、とにかく毎朝大根を食べ続けるというのは並大抵のことではないと思う。
信心深さうんぬんを言う前に、そもそもよっぽど好きじゃないと続かないのでは?

そしてそんなふうに毎日愛されていたからこそ、大根はファンを救いに現れたのではないだろうか。
だってこんなに推してくれる人、他にいるとは思えないし。

助けた人に名前を聞かれたら、「名乗るほどのものではございやせん」と颯爽と去るのが時代劇のお約束だと思っていたのだけど。
大根です」としっかり名乗っているところに「これからも応援よろしく頼むぜ!」という大根の下心が窺える……ような気がするのは、私だけでしょうか。

そんなわけで私にとってこの話は、「信心深い男がそれに救われた話」ではなく「大根のファンサービス」として胸に刻まれている。

*  *  *

私がピンチのときには、誰が助けてくれるんだろう。
ふと思いついて、自分の食生活を振り返ってみた。

真っ先に浮かんだのは、納豆豆腐
でも納豆は、長らくダイエットや健康番組で引っ張りだこ。
コロナが流行り始めた数カ月後には売り場から忽然と姿を消したり、「お一人様一点かぎり」と張り紙されるほどの人気スターだ。
とても一人の人間が窮地に陥ったからって助けてくれる感じじゃなさそう。
それに戦闘能力は高そうだけど、臭うだろうなぁ。恩着せがましく粘っこいこと言ってきそうだし。

豆腐は豆腐で飽きもせず毎日楽しく食べているけれど、やっぱり大根よりもファンは多い。
豆腐百珍』なんてファンブックも出ているくらいだから、きっと真の豆腐マニアしか助けてはくれないだろう。
それに正直、大根よりも強くなさそう。
敵の一撃を食らった瞬間ぼろぼろになってしまいそうだ。

もっと、何かないかな。
大根みたくそこそこ強そうで、かつ同担(=同じキャラクターやアイドル等の人物を応援するファン)の少なそうな食材。
自分を救ってくれそうな食材を探してスーパーをぶらぶらしていたら、見つけた。

炒り豆だ。
私は炒り豆愛に関しては、かなり自信がある。
なにせ子どもの頃から、もっとも好きな年中行事が節分なのである。
毎年いつも、「自分の歳の数だけ食べるのよ〜」という大人の声を無視して、数百年分の豆を貪っていた。

炒り豆なら大根二本分、毎日余裕で食べ続けられると思う。

炒り豆は薄く砂糖衣がかかったものや、醤油と海苔がまぶしてあるものなど種類も豊富だが、やはり一番好きなのはやはりスタンダードの素の炒り豆である。
私の炒り豆に対するこだわりは、メーカーにもある。
特に好きな炒り豆は、かつまたのものだ。

かつまたの福豆はカリリとしっかりした歯ごたえで、味自体はあまり主張が激しくない。素直に豆の味を楽しむにはもってこいの炒り豆である。

写真は昨年、私の炒り豆好きを知っている父が節分後に大量に買ってくれたものである。

炒り豆業界として大きいのはやはりでん六だが、私にとっては次点だ。
たしかにおいしいけれど、炒ってる感が少しあざとい。
ちょっと燻したような風味があるのだ。
それからかつまたに比べて、食感がやや軽めである。
個人的な好みだが、ごりごりな豆っぽさを持つ、硬くて素朴な炒り豆が私は好きだ。

その違いを何度説明しても、家族にはわかってもらえない。
父が私のためにノリノリで毎年店を回ってくれるから、少なくとも彼にだけはわかってほしいのに。
「どうせ炒り豆の味なんて大差ないでしょ」という関心の薄さの前には、何度食べ比べさせても情熱を持ってプレゼンしても効果はない。

悔しいのはそれだけではない。
節分が終わるやいなやメインコーナーに所狭しとひしめき合っていた彼らは、はなからそこに存在しなかったかのように片づけられてしまう。
彼らがいたはずの場所には以前からギラギラと売り場を圧迫していたチョコレートがさらに魔の手を伸ばし、バレンタイン帝国の領土を広げている。
キッと目をつり上げて店内を早足で移動して、私は値下げコーナーに積み上げられた半額シール付きの福豆を見つける。

悲しい。
本当は年中食べたいのに、この時期しか売っていないことも。
売れ残ってしまった彼らが、こうもあっさりと値下げされてしまうことも。
本当は他の炒り豆好きと結託して年中売るよう求めるべきなのに、私自身がこの値下げを心待ちにしてしまっていることも。

私は毎年、節分直後に豆狩りに行く。
近所のスーパーや量販店、ディスカウントショップをくまなく回り、半額かそれ以下になった彼らを買い占めるのだ。

それは年中行事に振り回される人間としての贖罪だと格好つけたいところだが、実際にはただ私が炒り豆が好きなだけである。
買った豆は日々のおやつとして、大切に半年くらいかけて食べる。

節分直後に家に遊びに来た友だちが昔、「業者の誤発注みたいな光景だ」と軽く引きながら、炒り豆をつまみにビールを飲んでいた。

もしかしたら彼らなら、私の窮地を救ってくれるかもしれない。
信心深さはさておき、推しへの愛なら私だって大根男に負けていないのだから。
私のヒーローは、大根ではなくて大豆だったのだ。

惜しいのは彼らの活躍が圧倒的に期間限定な点だけれど、彼らは鬼も倒せるツワモノだ。倒れた鬼を背に「あなたが毎日食べている、炒り豆です」なんて言われたら、もう、一生推す。

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