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「接続詞の呪い」と司書の師匠

唐突な自慢話で恐縮なのだけれど、高校を卒業するまで私は「国語神(こくごしん)」と呼ばれていた。
正確には国語全体が得意というわけではなく、ただ現代文が人よりもできただけなのだけれど「げんだいぶんしん」が言いにくいからか、だいぶ簡略化されていた。

先生や友人がそう呼ぶように、たしかに私は現代文の偏差値だけが突出していた。
高校生の頃の日記によれば、友だちから現代文を解くコツを聞かれた私は「文章に潜って存分にその中を泳いで、出た瞬間一気に解答用紙を走る!」と答えていたらしい。
不親切にもほどがある。
それでも国語神かよとツッコみたくなるけれど、当時はかなり本気でそう説いていたらしい。

そんな感じで文章に潜っていた頃、一番恐れていたのは死ネタだった。
登場人物が病気や事故や戦争で死んでしまう系の話が出ると、私は試験時間であろうが、そこが静かな図書室であろうが涙や鼻水が止まらなくなってしまうのだ。
現役生時代のセンター試験前日、その悩みを打ち明けていた仲よしの図書室の司書の先生が「誰も死ななければいいな」とキットカットをくれた。

そのくらい、物語に没入していた。
文章を追えば自分の目から皮膚に、臓器に、するすると文が染み込んでいって、最終的には登場人物たちにすっかり身体を乗っとられてしまうような感覚。
周りの雑音が消えていくのと比例するように、心ごと水中深くに引きずり込まれていくような、ひんやりとした引力。
一度文章に取り込まれたあとで顔を上げると、いつも息が苦しかった。息を止めて読んでいたのかどうかも、自分ではよくわからない。

そんなわけで現代文は私にとって、唯一にして最大の武器だった。
そして現代文がなければ私はただの、折り紙で作ったT2ファージを友だちの頭に乗せて大腸菌ごっこをするような、ちょいとおバカで悲しい高校生にすぎなかった。

とはいえ現代文しかできない高校生に、キャンパスライフは与えられない。
ものの見事に大学受験に全敗し、私は浪人生活を余儀なくされた。
せっかくだからと得点開示を申し込んだら、第一志望と第二志望は国語だけ9割超えで、世界史は5割、英語はなんと2割だった。
……そりゃあ無理だわ、無謀だわ。

同じように受験に敗れた友だち何人かでわいわいと申し込んだ予備校で、私は「現代文のカリスマ講師」に出会った。
彼の授業は独特だった。

「“しかし”!!以下チェック、主張〜!
「“または”!!以下言い換え、無視〜!
「“要するに”!!以下要約〜!

大声で接続詞に注意を促し、それ以降の文が問題文全体の中でどのような役割を果たしているかを端的に説く。
その声に合わせて文中に線を引いていけば、結果的には大事な箇所にだけ線が入った問題文ができあがるというのが彼のスタイルだった。

たしかにこれなら、現代文が読めないと嘆いていた友人たちも機械的に文章の重要度をはかることができそうだ。
最初は「へえ、予備校のカリスマはやることが違うな」と素直に感心していたのだけれど。

次第に私は、脳裏に刷り込まれた「以下チェック、主張〜!」に蝕まれていくことになる。
彼の授業を数回受けてからというもの、まったく文章に潜れなくなってしまったのだ。
すっと文の入り口に頭をつけてグッと潜ったはずが、「大切なのは」「しかし」が目に付いた瞬間「以下チェック、主張〜!」が大音量で頭に響く。
するとまるで全身がガラスにぶち当たったかのような衝撃を食らい、私は文章の外に放り出される。
再チャレンジしても、「または」や「さらには」に阻まれてまたポイッと文外へ。

つ……つらい。
文章が全然入れてくれない。
カリスマ講師の授業を受けてからというもの、私は文章の外壁をぐるぐる回るばかりで、核心を捉えることができなくなった。
私がぐるぐるしているうちに、当然模試の点数も偏差値も真っ逆さまに下がっていく。
その一方で現代文に悩んでいた友人たちはカリスマの力を得てめきめき点数を上げていった。
そのもどかしさはまさに地獄だった。
このまま心がささくれ立っていけば、李徴のように虎になってしまうだろう。

あのカリスマ講師さえいなければ。
でも親に授業料を払ってもらっている以上、授業をサボるという選択肢はない。

現代文を失ったことは、大学受験に失敗したこと以上の挫折感だった。
国語以外の二科目さえ頑張れば、一年後にはなんとかなっているはずだと信じていたからだ。
現代文を失った今、私は絶望的に丸腰だった。

唯一の武器をカリスマに奪われた私は、ようやく英語と世界史に正面から向き合った。
幸運にも英語の先生にも世界史の先生にも恵まれて、英語が得意な友だちと世界史が得意な友だちにも恵まれて、私はなんとか人並みに近づいていった。
そして徐々に全体の点数が上がっていく中で一番足を引っ張っているのは、かつて最も得意だったはずの現代文

接続詞ばかりが目について、文章に集中できない。
息抜きとして読んでいた小説やエッセイにまで接続詞の呪いは染み渡り、文章を読むことすらままならなくなった。

えぐい、つらい、しんどい。

カリスマの授業が私に合わないのは、カリスマのせいでもないし、たぶん私のせいでもない。
カリスマを信奉している予備校の友だちに愚痴るわけにもいかない。
どうにも逃げ場がなくなって、私は高校時代の図書室の司書さんに助けを求めた。
在学中に本を勧め合ったり学生時代の思い出を聞いたりする中で、この感覚は彼女にならわかってもらえるはずだという確信があったからだ。

ざっくりとした経緯をメールで送ったらすぐに、「時間のある放課後に学校に来い」と返事が来た。
次の日に久しぶりに高校に行くと先生はお茶を淹れてくれ、にやにやしながら話を聞いてくれた。

私が話し終えると、開口一番「つる、カリスマの授業はあんたが無意識でやってたことと同じだよ」と言った。
「でも、それを認めたくないんでしょう」

う。さすが司書さん。
実は薄々わかっていた。
彼の授業は私がこれまで自然に行ってきたことを、丹念かつ派手に言語化したものだ。
でもその派手な声かけのせいで、これまでは文の流れの中で掴めていたものが、接続詞が気になって掴めなくなってしまったのだ。
これまで無意識にできていたことが言語化されただけでこんなに集中できなくなってしまう自分にも嫌気が差していたし、そんな状況に追い込みやがってというカリスマに対する呪いが逆恨みであることもわかっていた。

「これからどうしよう……!もう彼の“しかし”!!以下チェック、主張〜!を私の頭から追い出すことは無理なんです」
そう弱音を吐いたら司書さんは、「それはもう無理でしょう」とばっさり切った。
「それにあんたを妨げてんのはそのカリスマの声っていうより、それに対して“うるせー”って拒絶してるあんたの声って気がするけれど」

それは考えたことがなかった。
でも言われてみればそうかもしれない。
いつの間にか、カリスマの声そのものよりも「カリスマのせいで解けなくなった」と彼に対する呪詛の方が大きくなっていて、その呪詛に自らが絡み取られていた。

立ち向かうな、慣れろ
と、彼女は言った。
意識することはもう止められないんだから、むやみにそこで戦わずにとにかく受け入れて、接続詞に対する刺激を和らげろ。
それが国語神じゃなくなったあんたができる、最善の策でしょう。

彼女の言葉に目が覚めた。
今は戦っている場合ではない。
ともかく受験を切り抜けるために、現代文を取り戻さなくては。

そこから先は、カリスマの幻聴にひたすらに同意しまくった。

“しかし”!!以下チェック、主張〜!
……そうだね、その通りだよ。
“要するに”!!以下要約〜!
……うんうんほんとね、要約してんね。

「わかっとるわい!うっさいな!」と反発していた時はあれほど騒がしく聞こえていたカリスマの声は、私が肯定すればするほど小さくなっていった。
とはいえしっかりと存在はしていて、時々“しかし”!!“または”!!と嬉しそうに強調してくる。
そのたびに、あぁそうねと根気強く相槌を打った。

結果的にその後、私が高校時代の集中力を取り戻すことはなかったけれど。
カリスマの声をBGM程度に聞き流しながら解くことで、死ネタにも泣かなくなったし、なんとか大学にも入れた。


*  *  *
それから月日は流れ、なんの因果か書籍の編集を仕事にすることになった。
著者と原稿を推敲している時、カリスマの声は相変わらず聞こえてくる。
昔は天敵だと憎んでいたその声に、私は時々救われている。

「この接続詞がきたら読者としてはまとめを期待してしまうんですけど……」
「ここで仰っていることと、この接続詞はマッチしてないように見えますが……」

国語神の頃だったら「この文の流れは気持ち悪い」としか表現できなかったであろう文章の構造に対する違和感。
これを言語化できるようになったことは、少なくとも今の私にとってはすごく役に立っている。

あの時カリスマを呪う私を諭してくれた司書さんは、今でも私の師匠である。
彼女の言葉がなかったら、私がこうしてカリスマに感謝をすることもなかっただろうし、本を好きでい続けられたかもわからない。

そんな彼女に最近、私のエッセイ集『春夏秋冬、ビール日和』を送った。
「届いたよー」と連絡をくれた数日後に「読了しました!」とメールをくれた。「さらっとからっと、時々くすっと笑えて、かなりいけます!」という言葉に胸をなでおろしたのも束の間、「単純に誤字だけど、52ページ《検討》とあるのは《見当》だよね」という一文に心臓が凍った。

おそるおそるページを開くと……ほんとだ。これは「見当」って書くべきやつだ。『ビール日和』をお持ちの方は、ぜひご確認ください。
これは、まごうことなき誤字です。
やってしまったなぁ。

相変わらず、師匠にはかなわない。

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