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伝説の刀鍛冶「天国」とは?

平家の宝刀、小烏丸を鍛えたという刀鍛冶「天国あまくに」。
7、8世紀ごろ、現在の奈良県宇陀市周辺で活躍していたと言われ「刀工の祖」や「めいを切った初の刀鍛冶」だとされる。しかし、伝説だけが強く残っており、銘も本人が切ったかどうか疑わしい。
このため、専門家も存在に首を傾げつつ彼の名前を挙げているに過ぎない。学問的にもあまり深掘りされることなく今日まで来ているが、この記事では諸説ある天国の逸話について、筆者が調べうる限りの情報をもとに推論を述べてゆく。

天国の足跡をたどる

さて、天国の存在を議論する前に、彼の足跡自体を紹介しておかねばならないだろう。

天叢雲剣あめのむらくものつるぎ生みの親

天国は「観智院本銘尽」には神代鍛冶として記載されており、生み出した刀の多くは、天皇や神社に存在している。
その筆頭が三種の神器のうちの一つ、天叢雲剣(別名:草薙剣)である。この剣は本体(熱田神宮蔵)、形代(宮中蔵)、壇ノ浦の戦いで紛失した3つがあるが、そのどれが天国作なのかは不明だ。
御物としては小烏丸の他にもう1振、古今伝授大和国天国御太刀という刀も彼が打ったとされているので、天皇の管理下には3振も天国作があるということになる。
その他にも各地の神社や寺社に彼の作品は点在していて、いずれも宝として保管されている。こういった逸話などが波及したためか、「天国の刀は邪を退ける」「抜くと雨が降る」とされ江戸時代には大名家にも多く伝わったそうだが、これらの真偽は不明な状態だ。

大和に残る痕跡

彼は大和国(現在の奈良県)で鍛冶師として活動していたとされる。今に伝わっている遺跡は、現在の宇陀市や高市郡にあるので、この近辺にいたことは間違いなさそうだ。

天国の井戸、屋敷跡
奈良県宇陀市菟田野稲戸にある、八坂神社(旧・稲津神社)の側に「天国の井戸」が存在し、観光地として知られている。ここから湧き出る水を使って刀を鍛えていたらしい。

そこから南西に歩いて数分、田んぼの畦道の先に「刀剣天国鍛冶屋屋敷跡」という目印がある。この周辺が屋敷であったと伝えられている。

いずれも住宅地の中なので、静かに訪問しよう。
余談だが、2021年にはこの史跡を地域活性化に役立てようと整備が行われた。かつては今にも崩れそうな井戸だったが、美しく蘇った。

2021年、整備された天国の井戸。完成にあたってはイベントも行われた

ちなみにこの近くの大宇陀野依にも「鍛冶屋畑」という宅址や榛原池上にも伝承地が残っているそうだが、まだ追うことができずにいる。

焼刃の井、鞴場ふいごば
高市郡高取町字清水谷にかつてあったとされる尼ヶ谷という集落に上記のような史跡があったようだ。旧地名が少々名前に似通っていると思った人は勘がいい。そう。かつては清水谷村字アマクニと記載され、天国の名前が由来だとされてきた。

しかし昭和時代には既に史跡は廃れており、現在は集落が「この辺りにあった」というような認識しかない状態で追うことはできない。いつかは筆者の手で見つけ出したいものである。
またこの近くには天国三輪神社があり、彼らの守護神であった。この神々も今は高生神社の方に合祀ごうしされている。


少し話が逸れるが、宇陀鍛冶が使ったとされる井戸も、天国の井戸からほど近い宇太水分神社うだのみくまりじんじゃに残されている。この一帯は鉄分を多く含む赤茶色の土がよく見られ、清らかな水も多く、古くから刀を鍛えられる状況は揃っていただろう。
刀剣愛好家に親しまれている「宇多派」という刀の流派も、元は宇多国光とう鎌倉時代末期の刀鍛冶がここから越中(現在の富山県)に移って広まったことが始まりである。
これらは偶然の一致ではなく、やはり天国のようなスペシャリストがいて刀鍛冶の素地が仕上がっていたように思えてならない。

天国は何者なのか

さて、ある程度所在地が判明したが、その存在時期を特定するのが更に困難を極める。逸話が残っている時期と、現存している刀剣の時代が一致しないのである。天国の存在が否定される原因の1つだ。

まずは逸話の側から見てみよう。冒頭でもお伝えした通り、天国は7・8世紀ごろの刀工とされる。だが1人の人間が200年も生きているのは疑わしいので(古代の天皇はそれぐらい平気で存命のようだが)もう少し時期を具体的にしよう。

「古事記」「日本書紀」に記載される天叢雲剣を打っていることが本当であれば、物語の成立時期である712年〜720年には存在したことになる。ちなみに、ヤマタノオロチやヤマトタケルが本当にいたのか、といった神話の議論は別記事で考察するので割愛する。
そしてこれらの歴史書を編纂へんさんするよう指示を出していたのが第40代天皇の天武天皇(在位673年〜686年)である。さらに10代経って、第50代天皇の桓武天皇(在位781年〜806年)が登場する。ここで、天皇は伊勢神宮の使いである大きなカラスから小烏丸を受け取るのだ。
他にも逸話は多々あるが、結果として8世紀(701年〜800年)ごろにいたと考えるのは無理のない状態である。正倉院の宝物たちもこの間に奉納されていることを考えれば、鋒諸刃の刀を天国が作って違和感はない。(しかしどう頑張っても100年近く生きていることになり疑惑は残る)

ところが、刀の方が合わない。
正倉院には確かに鋒諸刃の剣が存在する。中には、ちょっとばかり反っている刀があるが、それは現代の我々が思う「小烏丸造」とはかけ離れる。優美な反りが生まれるのはどれだけ早くとも9世紀になってしまうので、御物小烏丸のような姿を生み出すのは難しいだろう。そして8・9世紀には豊前国(現在の大分県)宇佐神宮周辺に刀工神息しんそくが登場するため、日本刀の祖と言うには少々首を捻る。
銘を初めて切った人物である、ということを正とすれば、逆に大宝律令の出た大宝年間(701年〜704年)には刀を打っていないといけなくなる。

もうお分かりだろう。逸話と現存する刀の辻褄を合わせようとすればするほど、天国の存在が不明瞭になるのである。そして反省すべき点が2つある。

1人の刀工に1つの名前ではない

あらかじめ断っておくが、何も100年200年人間が生きられないから複数人説を推すのではない。当時の時代背景を考えると刀工は名を残さなくて良かったからだ。先ほど神息という古い刀工の名前を出したが、この刀工も複数代いたとする説が存在している。

奈良時代の当時、鍛冶師があちこちにいたわけではなかった。ほとんどが天皇や地域の神々に従属していたため、大和国の天皇には天国が、豊前国の神社には神息が刀を鍛えて納める形だ。つまり刀工たちは納品先が決まっているのだから、いちいち刀に名前を残す必要はない。
痕跡の範囲が広めであることを考えると、個人名というより、鍛冶集団全体に付けられた名前だったかもしれないが、この辺りは資料が無いので、空想の範疇に留まる。

国から「必ず名前と作刀の時期を記すように」と指示されたのが大宝年間である。とはいえ電子機器のない当時のことだ。各地への普及に時間を要するのですぐさま銘を切れる刀工は少なかったのではないかと愚考する。(銘も最初から切るスタイルだったのか疑問が残る)
ちなみに御物となっている「伊勢家小烏丸」にもかつて天国の銘があって、本阿弥光悦の押型には「大宝●年」と記載が残る。肝心の部分が読み取れず、これもまた専門家たちの意見が割れた。この考察も取り上げると1つの特集になってしまうので、いずれ別記事にまとめよう。

よって筆者は700年前後に大陸から日本にやってきた技術者の初代がいて、数十年経ち、数代目の天国が小烏丸を鍛えたと考えている。

弟子の存在

名のある技術者には、多くの部下や弟子がつく。天国という名前だけで刀を作っていた人々もいずれ本家分家といったように、広がりを見せていく。そのままにすると多数の天国が生まれてしまうので、この混乱を避けるため、弟子には弟子の名前をつけた。その筆頭が天座あまざであり、天雲、天藤、天行、天原といった名前も伝説的にではあるが残っている。
だが、綺麗に「天」の文字だけを受け継いでいること、江戸時代にこれらの銘が浮上し、昭和初期に名が広った傾向を考えると、ここは疑わしいと言うしかない。(天国と天座については銘の残る刀があるが、それ以外は文献上の記録に留まる)

10世紀まで下がって山城国(現在の京都府)の三条宗近も彼の弟子とするものがあるが、これもちょっと後付けの感じがある。甘く見ても、遷都のタイミングで京へ移り住んだ大和鍛冶から、宗近が技術を学んだとする程度ではないだろうか。

平家小烏丸が小烏丸造とは限らない

筆者が「平家小烏丸」と呼んでいる、いわゆる平家物語や平治物語に記載がある「小烏という太刀」の説明には天国の名前が登場しない。あくまで平家の宝刀で、家長が身につけるべきものの象徴として記されているに留まる。
そして現代の我々が知る、あの小烏丸造という独特の姿については、全く描写がなされていないのだ。

平治物語絵詞(六波羅行幸巻)部分
東京国立博物館研究情報アーカイブスより

あくまで現在、小烏丸でイメージされるのは写真が明瞭に残っていて、過去数回公開されたことがある御物の方の「伊勢家小烏丸」だ。我々は目の前に見えるものこそが全てであると思いがちだが、ここを疑わなくてはならない。
小烏丸という同名の刀が3振あることは過去の記事で紹介した。400年近い空白がある以上、平家小烏丸=伊勢家小烏丸(現・御物)だとはどう頑張っても言い切れない。
よって、平家小烏丸も小烏丸造だということは、確認が取れない。天国が打ったという話も鎌倉後期ごろの後付けである可能性が高い。しかしながら、可能性は0ではない。何せ実物を見ることが叶わないからだ。

結論をもう一度言うと、天国というのは奈良時代に日本へやってきた刀鍛冶集団で、大和国に居を構えた。うち、700年前後に腕の良いものが現れ知名度が上がっていく。これを初代とするならば、その後も集団は数代栄え、直刀時代から反りのある日本刀の原型誕生に関わったとして差し障りはないと思われる。
そして、鎌倉以降は周辺の有名刀工の興盛(今で言う大和五派など)により、その名は伝承で細々と繋がっていく。室町時代になると2振りの小烏丸(伊勢家小烏丸、江馬小烏丸)が登場することで、その製作者としてまた名前が蘇る形になったのではないだろうか。

近代の天国たち

「天国が集団?そんな訳が無い」「長年存在したなら、いつ潰えたのか」という反論が一部から聞こえそうである。では、近代にも”天国流”なるものが存在していたことはご存じだろうか。

天国の井戸に残る文章

さて、その話をするにはこの写真に戻って注目してほしい。

左側が井戸。この屋根の部分に案内板がある

意図には屋根がかかっており、その中に案内板らしきものがある。ここには八坂神社に伝わる井戸の逸話が書き残されていた。漢字だらけで読みづらいだろうが看板の文字を起したものも記述しておく。

冒頭には「神泉 口伝に天国の井戸と云う」とある

神泉 口傳ニ天國ノ井戸ト云フ
(本社々傳ニ曰ク)
崇神天皇六年畏神威勅鏡造石凝姥神之孫改鋳鏡天目一個神之孫改造剣移此ニ種寶大和國宇陀郡以為護身而置同殿其自上古傅神鏡及霊剣即附皇女豊耜入娘立神蘺干大和笠縫邑以祭之右霊跡當社境内有之文武天皇御宇此霊地水依天國刀創造其居所稱宇鍛冶屋今為小字存在云々 神皇正統記 本朝神社考 神明鏡 二十二社本縁各書有同禄文書 今尚神社ノ前方町餘ヲ隔テテ櫻樹ノ老朽セル側間柱ノ「稲津」ト書セルアリ往時ノ石鳥居ノ跡ニシテ櫻ハ右近ノ櫻ト云ヒ傳フ 境内ノ大ナリシヲ知ルベキナリ 云々

又明治四十一年十一月明治天皇奈良市行幸特別大演習ヲ耳成山ニ御統監被為在ニ際シ本郡町村長會ハ剣ヲ奉献スル事ヲ決議シ萩原ノ住人池田重光氏ニ剣(子烏丸作リ)ヲ製作セシム氏ハ昔時天國ノ故事ヲ慕ヒ斎戒沐浴シテ此ノ井水ヲ以テ剣ヲ力作ス頗ル名刀ヲ得タリ 郡ハ直チニ献納ノ手続ヲ了ヘ御嘉納ノ栄ヲ賜ル

備考
上古ハ現在ノ地面ヨリ約五尺程ノ底地ニシテ老杉ノ株下岩窟ノ如クナリテ湧出シ居リシニ星霜ノ移リ変ルニ随ヒ自然地形変換シ旧態ノ認メ得ザルハ頗ル遺憾トスル●ナルモ祖先ノ如何ニ現地保存ニ努力セラレタルカヲ思ハハ轉タ感謝ニ堪ヘザル所ナリ
※●は雨冠に匁

昭和五十四年十月一日建之

さて、筆者が注目したのは後半部分の話である。
要約すると、明治41年(1908年)11月に明治天皇が奈良に行幸されるので、本郡町の村長会で剣を献上することを決定。昔萩原に住む池田重光という人物が、天国の故事を元に、物忌や沐浴を行ってこの井戸の水で素晴らしい名刀を打った。小烏丸造の剣だったこともあって、天皇も喜んでこの刀を受け取ったとする。

刀工・池田重光とは

さて、この池田重光とは何者なのだろうか。
宇陀市の郷土資料によれば、実の名前を池田重治郎と言い、文政8年(1825年)に生まれて幼少期から鍛冶師を目指す。
刃物師の弟子になった後、天国流秘法を知る刀剣師の元光に入門している。独立した後になってから池田重光と名乗ったそうで、嘉永5年(1852年)には刀剣専門の鍛冶師となった。子の重平と重則に秘法を伝えた後、明治12年(1879年)に没した。
明治天皇に献上の刀は、死後30年ほど後になってからということになる。(生前に親子で打ったとする資料もある)

実は宇陀市の阿紀神社にも天国作の太刀があるが、実物を確認した関係者曰く、江戸時代後期〜明治時代のものだろうということなので、これらも重光もしくはその師である元光が奉納した可能性が高い。

つまり、これまでよく「新しい刀なのだから天国の訳が無い。偽物だ」などと評されてきたが、(偽物として仕立てたかどうかは別として)江戸時代には天国流なる刀鍛冶が密かに銘を刻んでいたと考えられるのだ。少なくとも重光は遠い祖先に天国がいたことを認識した上で刀を打っている。

天国のその後

となると江戸時代になぜか大名家がこぞって所有したとする天国作は、偽物だと断言してしまうのは時期尚早で、その当時いた天国流の刀鍛冶が打ったのだろう。
ちなみに、重光からその秘法を受け取った重平は大正6年(1917)の資料において、刃物類の製作を現役で行っていたと残っている。宇陀市周辺は当時農村なので日本刀だけでなく、農具や包丁なども拵えていたようだ。彼の子孫が今どのように過ごしているかは個人情報になるので触れない。

まとめ

人はどうしても、目の前にある物の情報に頼る。そして、学術的になればなるほど、現存の資料を元に内容を組み立ていくケースが多い。そのことを揶揄するつもりは全くないが、時には伝承の中にヒントが潜むという点も見逃せない。

天国が活躍した宇陀や高市といった周辺には、多くの刀鍛冶が長年おり、その歴史は日本一古いことがわかる。
この記事では割愛したが、名前や来歴を辿れば簡単に神代まで遡れ、逆に彼の後には宇陀鍛冶のみならず、周辺地域で活躍する大和五派、越中に移った宇多派、ひっそりと刀を打った天国流が続いている。

池田重光は、生前弟子たちにこんな言葉をかけていた。
「刀剣師は営利を目的にするものではない。すべからく300年の後世を楽しみとすることだ」
彼が没してからおよそ150年。まだ折り返しの地点である。筆者は刀剣愛好家として一概に偽名・贋作などと括らず、彼らの痕跡を守っていきたいと強く思う。


参考文献、参考サイト
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・近江紀夫 「刀剣と歴史 635号 『観智院本銘尽』の成り立ちに関する考察」 日本刀剣保存協会 2000年
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https://meta01.library.pref.nara.jp/opac/repository/repo/672/?lang=0&mode=&codeno=#?c=0&m=0&s=0&cv=0&r=0&xywh=28%2C715%2C988%2C648  
・京都帝国大学文学部史学科 「紀元二千六百年記念史学論文集」 1941年
・小笠原信男 「日本の美術 137  大和と美濃」至文堂 1977年
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・福永酔剣 「日本刀よもやま話」 雄山閣出版 1989年
・福永酔剣 「刀工史跡巡り三三〇選」 雄山閣出版 1994年
・常石英明 「日本刀の歴史 古刀編」 金園社 2016年
・原田道寛 「日本刀私談」 春秋社 1940年
・宇陀市観光協会 菟田野支部 天国の井戸 2022年8月14日最終閲覧 https://utano-kanko.com/209/ 
・宇太水分神社 公式サイト 2022年8月13日最終閲覧 http://www1.odn.ne.jp/udanomikumari/ 
・朝日新聞デジタル 「伝説の刀工「天国」、刀剣ブームにはまるか 宇陀市」 2022年8月15日最終閲覧 https://www.asahi.com/articles/ASP8Z7368P8ZPOMB00D.html 

また、天国の逸話の調査に関しまして、奈良県宇陀市の皆様に多々ご協力をいただきました。心から感謝申し上げます。

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