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三振りの小烏丸

「小烏丸」と調べると、真っ先に出てくるのは皇室の御物として残る小烏丸だろうと思う。平成10年に東京国立博物館でも展示されているため、そのイメージが最も強いのが事実だ。

だが、この1000年の間に同名の刀はなんと三振り(場合によっては四振)もあることをご存知だろうか。
後々、混乱をきたさないように予めここで整理して述べていきたい。

1、平家の小烏丸

『平治物語』『源平盛衰記』『平家物語』といった古くからある軍記物によく登場するのが、平家の宝刀として伝わった小烏丸である。
※源氏のものとする話については後述

名前の由来は、桓武天皇の元に一羽の大烏(八咫烏)が現れ、大神宮(伊勢神宮)の使いと名乗ったあと、一振りの太刀がその場に残された。
これを見た桓武天皇が「烏が持って参ったのだから、”小烏丸”と呼ぶとしよう」と命名し、以来、朝廷の宝刀となったとする。

だが、平家が元々桓武天皇の子孫だと明言していることを考えると、この話は「正当な血筋の表現」として生み出された逸話のように思える。
しかもこの話は、鎌倉時代の武将・簗刑部左衛門入道円阿の口伝とされているから、そのまま信用するのは難しい。

ちなみに、桓武平氏と清盛周辺のざっくりな家系図はこのような形。
(詳細に書くと膨大な量になるため悪しからず・・・)
桓武天皇 ー 葛原親王 ー 高見王 ー 高望王 ー 国香 ー 貞盛 ー 維衡 ー 正度 ー 正衡 ー 正盛 ー 忠盛 ー 清盛 ー 重盛 ー 維盛 ー 高清

しかし、平家と小烏丸と繋ぐ逸話はまだまだある。
もう一つは「平将門を討ち取った」という話だ。
関東で新皇を自称した平将門を警戒した朝廷側は、平貞盛に太刀を授けて討伐を命じた。
なんとこの時、将門は分身の術を使っており、同じ姿の武者が8人現れたという。どれが本物か、さっぱりわからない貞盛は兜に烏の飾りを付けた武者を切ったところ、それが本物の将門だった。
このことから、平家は以後この太刀を”小烏丸”と名付けて大切にしたという逸話だ。

しかし、貞盛は弓を使って将門を倒した話も多く残っている。この話も後から平家と小烏丸を強固な結びつきにするため、脚色が入っていると考えられるだろう。

情報として”正”に近いのは、貞盛の代から平家の当主に受け継がれるようになったと言う部分だろうか。
平清盛のひ孫に当たる、六代平高清まで所持していたとする軍記物は非常に多く、壇ノ浦に追い詰められて滅びるその瞬間まで小烏丸はそばに置いていたとされている。
三種の神器のひとつ、天叢雲剣/草薙剣ですら運命を共にさせるような状態であったのだから、一族のシンボル小烏丸も当然、一緒に沈んでいると考えるのが妥当かもしれない。

そのほかにも平家と小烏丸を結ぶ逸話があるのだが、書き連ねるのも読みづらいだろうから、別コラムで紹介を行おう。

以降、このサイトでは他の刀と区別するため”平家小烏丸”と表記する。

※場合により小鴉丸の表記がなされる文献もあるが、特に意味が異なるわけでもないので、小烏丸の表記で統一

2、伊勢家の小烏丸

伊勢家の小烏丸は、現在の皇室に現存するものと同じ刀である。

先述の平家小烏丸が壇ノ浦後も残り、その後伊勢家へと伝来したと本人たち(伊勢家)が『小烏丸太刀唐皮鎧之由来』に書き記している。
また、松平定信が記した『集古十種』などにも記録があるため、平家伝来のものと伊勢家のものが同じ刀だとする認識が広がった。
しかし、六代(平高清)で平家が断絶して約400年後の室町時代に入って、文献上にその名前が突如登場していて、その間の経歴が不明である以上、現段階では別物として判断せざるを得ない。
このことから、有識者たちは皇室に現存する小烏丸は鎌倉後期ごろの作品ではないかと論じている。

明治の初めに対馬藩主・宗重正が買い取り、明治15年に天皇に献上され、以降は宮中祭祀の新嘗祭で使用される宝剣(管理は東京国立博物館)として今に伝わる。

ちなみに、江戸時代に本阿弥光悦が押し型を取っており、そこには「天国」の文字が見られているが、現存の御物小烏丸は無銘になっている。
すり減ったために消失したかと思われる。

以降、このサイトでは他の刀と区別するため”伊勢家小烏丸(現御物)”と表記する。

3、江馬氏の小烏丸

飛騨国の江馬(江間)氏に伝来した小烏丸で、こちらも平家(高清)から江馬氏へ伝わったとしている。
先ほど紹介した『集古十種』にも記されているため、すでにこの時代には小烏丸は伊勢家と江馬氏の両家にあったと確認されていたことになる。

さらにややこしいことに、この”江馬氏の小烏丸”、なんと2振りある。
飛騨国分寺に現存している小烏丸と、遠州浜松の小烏丸である。

まずは飛騨国分寺に伝えられている刀だが、『小烏丸の記』『飛騨国治乱記』『飛騨國國分寺重賓小烏丸太刀鑑定補修の記』などいくつかに記録が残っている。
これらの文献、譲渡歴はやや異なっているが、まとめると
「生き残った高清が僧侶となるも、途中相模の辺りで斬られてしまい、同じ平家筋の経盛(清盛の弟)の末裔である江馬輝恒に渡った」
という流れである。
その後、戦国時代には金森可重の手に渡り、徳川家康に献上しようとするのがだが「私は源氏筋であり、平家の小烏丸を所持するのは憚られる」として飛騨高山の国分寺へと下げ渡されて今に伝わっている。

この飛騨国分寺の小烏丸を『英雄と佩刀』で紹介した高瀬羽皐が一緒に取り上げたのが遠州浜松の小烏丸である。しかしながら小烏造ではないことを理由に別物であろうと記述している。

以降、このサイトでは他の刀と区別するため”江馬小烏丸”と表記し、特に断りがない限りは飛騨国分寺のものを示すこととする。

番外編、源氏の小烏

「自分は源氏のものなので」と受け取りを断った家康だが、実は小烏という名前の太刀を源氏が所有していたとする話も『平家物語』『源平盛衰記』などに収められた「剣の巻」に残っている。

源為義が所有していた獅子の子(鬼切、髭切)と吼丸(蜘蛛切、膝丸)のうち、吼丸を熊野へ奉納することになった。吼丸がいないことを寂しく思った為義は、播磨から刀鍛冶を呼び寄せて、獅子の子を手本に少しばかり長めの太刀を打たせた。
烏を描いた目貫をつけて、小烏と名付けて獅子の子と並べて立てていたところ、獅子の子が倒れて小烏を切った。このことから、獅子の子は「友切」と名を変える。

この小烏は為義から義朝に渡り、義朝の死後は清盛の手に渡ったとするのだが、『平治物語』では義朝が死ぬ以前から平重盛が「小烏(小烏丸)という太刀」を佩刀しているため、混在したことになる。
福永酔剣はこのことから、小烏丸はもともと平家重代の刀だったとしており、そのほかの刀剣書でも異説として紹介されている。
なお、この小烏も現在は行方不明である。

まとめ

平家の刀、として名高い小烏丸だが、実際にはあちこちに「小烏丸」「小鴉丸」「小烏」という名前の太刀が多く残っている。
今回紹介した内容はあくまで概要説明で、実際にはまだまだ多くの逸話があり、来歴も読んでいて違和感のあるものもある。

ここまで多数の来歴があるのは
①平家最期の高清に壇ノ浦死亡説、生存説などが存在する
②鎌倉、室町時代の混乱期に行方不明で、文献でしか確認できなかった
などの要因が、平家伝来のその後の逸話を派生させたのだろうと思われる。

今回、情報を整理していた著者もずいぶんと途中で混乱してしまい、非常にまとめるのに手間取ってしまったことをお詫び申し上げる。
それぞれの逸話についての考察も順次行っていく予定なので、時折足を運んでいただけると幸いである。

参考文献、参考サイトーーーーーーーーーー
・水原一 「新潮日本古典集成 平家物語(上・中・下)」 新潮社 2016年
・杉本圭三郎 「新版 平家物語(一〜四)」 講談社学術文庫 2017年
・谷口耕一、小番達 「平治物語」 講談社学術文庫 2019年
・菊池寛 「源平盛衰記」 響林社 2013年
・福永酔剣 「日本刀よもやま話」 雄山閣出版 1989年
・名刀幻想辞典 2021年11月20日最終閲覧
 https://meitou.info/index.php/%E5%B0%8F%E9%B4%89%E4%B8%B8
・松平定信 「集古十種 : 兵器・刀劔. 兵器 刀劔 一」 国立国会図書館デジタルコレクション 2021年8月19日最終閲覧
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1900377/44?viewMode=
・常石英明 「日本刀の歴史 古刀編」 金園社 2016年
・日本武具研究会 「図解 武将・剣豪と日本刀」 笠倉出版社 2011年
・二木兼一 「日本刀と武士 -その知られざる驚きの刃生-」 実業之日本社 2015年
・飛騨国国分寺現塔由来其他 飛騨國國分寺小烏丸太刀
 国立国会図書館にて閲覧。2020年11月最終閲覧データによる
・柴田忠太郎 「飛騨と江馬氏:高原史跡」 国立国会図書館デジタルコレクション 2021年9月25日最終閲覧
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1125061
・高瀬羽皐 「英雄と佩刀」 国立国会図書館デジタルコレクション 2021年11月23日最終閲覧
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/946231
・吉川恒次郎 「刀剣と歴史 694号 国分寺の国宝小烏丸を見る」日本刀剣保存会 2007年

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