わたしたちは詩人、まちは言葉の『彗星交叉点』
歌人ならではの言葉に対する感度の高さ、繊細かつ的確に表現するワードセンス、読む者の世界の見え方を変えるひとさじのユーモア。穂村弘さんのエッセイが大好きである。
『彗星交叉点』(筑摩書房)を本屋で見つけた瞬間、躊躇なく読書計画を解体し、目当ての本そっちのけで購入。帰りの電車で早速読みふけった。
本書でも、穂村さんの語感の鋭さは爆発。
そう、自慢って”ぶしゅーっ”なのだ。その話題になったら最後、あらがいようも、とめどもない。ひらがななのもいい。おなかみたいな、たまごアイスみたいな、やわらかくてぱんぱんなものから押し出される感じ。これからは、自慢してしまったと自覚する前に、おなかあたりから”ぶしゅーっ”と音が聞こえてくるに違いない。
私もかつて大学の先輩や同僚に「多部未華子に似てる!」と言われたのがうれしくて、ひとり思い出しては自己肯定感を引き上げている。ちょっとお下品な感じもするけど、学習机の下に隠したとっておきの宝箱を開けて眺めるような純真さや無邪気さも伝わってくる。
穂村さんの言葉の魔法にかかれば、名もなき現象がまたたくまに輝きを帯びる。短歌の奥深さをのぞいたり、食の楽しさに気づかされたり、なにげない日常に紛れた宝石を見つけてもらったり、これまでも彼に連れられて、世界をあらゆる角度から見つめなおしてきた。
そして、本書のテーマは”「偶然性による結果的ポエム」についての考察(「あとがき」より)”。
電車やカフェで聞こえてきた会話の断片、メールに添えられた一文、怪しい勧誘文句、ちょっとした言い間違い、店先のポスター、へんてこなあだ名に、人生最期の言葉……。”作品”として昇華されることなく、まちで生まれては消える生の言葉を集め、そこから広がる思索を綴っている。
中でも印象に残ったのが「その言葉を云うのは」という、なぜか母にしか言われない奇妙な悪口を集めた一編だ。
たとえば穂村さんの場合なら「おだって」、「いいふりこき」、「しんけいたかり」、「はりっはりと食べない」。それぞれ「調子乗り」、「ええかっこしい」、「神経質」、「美味しそうに勢いよく食べない」の意で、いずれも軽く否定的なニュアンスをともなって使われるらしい。(p.69-72)
どれも聞いたことはないけれど、音だけでぼんやり意味が伝わってくるのが不思議だ。ところで、調子乗りのええかっこしいで神経質な穂村さんってどんな人?人物像をつかみ損ねてくらくら。
しかし恥ずかしながら、我が家にも母独自の奇妙な悪口が存在する。
ことあるごとに「すぐカンカンになるんやから」と評される。他の人が聞いたら「キレ散らかすな」と注意されているように映るだろうが、そうではない。
私は勉強や仕事に取りかかると、そのことばかり考えて他に手が回らなくなってしまう。責任感が暴走し、本当はやりたくないことでも寝食を忘れて没頭し、しばしば体調を崩したり、心のゆとりを失ったりする。
つまり母の「カンカンになるな」は「根を詰めすぎるな」の意味。頑張りを認める表現ではなく、娘の性格に対する批判的なあきらめが多分に含まれている。
軽くネットで検索してみたが、「カンカンになる」の同義語に「根を詰める」は見当たらない。どこかの方言なのか、片っ端から辞書を引けば見つかるのか。少なくとも母以外の人から言われたことはない。
閉じこもって作業することを「缶詰になる」というが、その「缶缶」なのだろうか(そもそも缶を「カンカン」と呼ぶのは関西の方言?)。それとも本来の意味にルーツがあるのか。根を詰めすぎて頭に熱が上がり、視野が狭くなる状態は、怒りに侵されていく時の体感と通ずるところがある。
ついでに妹にも聞いてみた。「あー」と少し考えるそぶりを見せて、すぐに「おちゃかさん」と答える。
こちらも調べてみたが、ヒットしなかった。「そそっかしい人」を表す「おちょか」という方言があるようだが、母の「おちゃかさん」とはちょっと違う。
妹はむしろ要領がよく、「ちゃか」は「ちゃっかりさん」からきているのかもしれない。が、これも褒め言葉ではない。ちゃっかりしているが肝心なところで詰めが甘く、くだらないミスをやらかすところまでが「おちゃかさん」なのである。
言葉には”枠”がある。
たとえばこうして文章を書いたら、公開ボタンを押す前に校正をする。ここは「が」じゃなくて「は」、この表現の使い方は合ってったっけ、過去形が続いて単調だな、同じ単語がダブっているぞと、持てる文法や常識を駆使して、できるかぎりたくさんの人に伝わるように一文字一文字を均していく。
一方で、会話や日常的なツイートの多くは、湧いて浮かんだそばから感情を言語化していく。後戻りできずに吐き出し続けた連なりの中には、正しさの枠からズレたりはみ出したりした部分ができる。その凹凸は聞き手や読み手の心に引っかかり、意図しない感情を伝えたり、独特の味わいを与えたりして、詩情を生む。
「カンカン」や「おちゃかさん」もまた、広く一般に使われていないという意味では、はみ出しものと言えるかもしれない。もし母みずからが生み出したのなら、彼女は立派な詩人である。
このふたつの言葉には、揶揄と同じだけ親愛なるものへのまなざしが込められている。「カンカンになる」には触れられぬほど熱くなっている私への心配が、「おちゃかさん」には欠点をもキャラクタライズしてしまうほどの愛情が。
たとえ言葉のルーツが他にあろうとも、自分の思いを替えのきかない言葉に託し届ける母の姿勢は、やはり詩人なのである。
『彗星交叉点』は、母に限らずだれもが詩人であることを教えてくれる。もちろん、あなたもわたしも。
今日一日、なにげなく発したサインの中に天然の詩が紛れていたかもしれない。そう思えば、この退屈な世界も言葉の彗星が行き交う宇宙空間。明日も生まれては消える光との燃えるような邂逅が待っている。
◉穂村弘『彗星交叉点』(筑摩書房)
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