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同じ生き物になれなかった。町を歩けば普通なのに


 令和になる前から、私はみんなで優勝したかった。誰かと同じようにできて胸を撫で下ろした。平均点以上だと醜く嬉しかった。そんな自分自身に本能的な嫌悪感を抱いていた。


 幼少期、私は皆に真似されるような人間であった。

「うたたび君と同じように皆やってみよう」

 そう先生は言った。有名人が壁にサインしている、そんな気分だろうか。私は前に出て、黒板で計算式を解いていた。

 気持ちがよかった——のかわからない。安心していたのか、それとも自分を「無駄」と思いたくなかったのかもしれない。

 勉強をしたら、勉強ができる子になれる。学生の頃の私は、努力は報われない、裏切るということを不幸に知らなかった。「やればできるようになる」を積み重ねていた。

 ・・・


 社会人になって、就職。けたたましい町を駆け抜け、入社式へと向かう。自分自身がいつか無職になるなんて考えてもいなかった。かなり本気で、定年まで同じ会社に勤めるつもりだった。「本気」というよりは、そうなるだろうと達観していたのかもしれない。

 時に悩み、つらい出来事があったとして、転職をするにしても、私はまあできると思っていた。なんなら転職は前向きなものだと思っていた。だって私は"真似されるような人"だったから。意識してそれらを言葉にしていたわけではない。刷り込みだった。

 スーツと笑顔を身に纏い、たのしく、狂うように働いていた。それが普通だからと言われ、暗示の鎖をひとつ、またひとつとかけられていく。理解できてえらいぞお、ほれ、金メダルだと言わんばかりに。だって私は「優勝」するのが好きだった。毒のような安堵を連続で注射していく。



 ・・・



「売れないなら死んだほうがいいよ」


 新卒で入った職場で罵詈雑言浴び続けてそれが今も鮮明にトラウマとして残っている。どうやら怒られている私だけ、普通ではないのだと思った。

 相手のためにも、自分のためにもならない商品を、私は売ることができなかった。タダだとしてもいらないようなものを、さも価値があるかのようにして振る舞い続けられなかった。

 どうやら皆できているようだった。

 私も同じようにやりたかった。私も真似してやってみた。だが漠然と、だらだらと時間だけが過ぎていく。それでもたまたま物を私が売ることができたとき、達成感といった甘美で流麗なものはなかった。買わせてしまってごめんなさいと思っていた。会社の商品にも、自分にも自信がなかった。

 出勤するときも、帰り道でも、どこでだって涙が出てきた。町を歩くとみんな普通そうだ。泣いていなければ私も普通に見えるだろうに。

 目から水滴が溢れるとき、そこが物理的に痛むようになっていた。同期はどんどん成績をあげていく。馬鹿にされた、虐げられた。だから強くなれと周りは言った。お前は弱いと言われた。怒られているうちが花だと言われた。外は雨も風も強かった。スイートピーやイングリッシュローズみたいに、私は、あっという間であった。



 ・・・



 30歳。私は懲りずに就職していた。

 いままで様々な職場を休職したり、退職したり、転職をしたり、無職になったりした。町を歩けば結構私は普通そうで、ぜんぜん駄目な人間だった。アルバイトもやって、それも続かなかった。

 どこまで働いたら"続いている"と言えるのだろう。満足もやすらぎもなかった。


 現在の私は休職をしている。

 この期間も、あと少しで半月が経つところだろうか。やっと私は会社に行っていたときの鞄の中身を整理した。

 そこにはびっしり書かれたメモ帳が入っていた。仕事で使っていた私のメモ帳だ。休職した今、ほんとうに私は阿呆だなあと思ったのでこのnoteを書き始めることにした。

 ひらりとまずは1ページ目。

 色々なIDやパスワードが書いてある。メールアドレスや社内の人の名前。それぞれの部署が何をやっているかとか。私はメモ帳を新しくするたびに、次のメモ帳にまたそれらを書き直す。

 毎日毎日その日のやることを書いている。そもそも今時全部デジタルだ。社内のやりとりはSlackだし、スプレットシートに業務予定を書かなければいけない場所がどうせある。


 それなのに懲りずに私は書いて、メモをしている。

 覚えなければいけないことをメモしているのではない。馬鹿げていると思うかもしれないが、私は"書くこと"にそもそも安心している。覚えている、覚えていないとかではないのだ。

 少なくとも自分のメモ帳に記すことで、私は仕事を忘れることがない。他の誰かだと余裕で忘れている姿をよく見るが、それで私が誇らしげになるわけではない。むしろそのリカバリーが美しく、どうにでもなると言わんばかりの行動力にいつもひれ伏すしかない。私にとってメモをすること、書くことは、覚えて、学んで成長していきたいといった前向きな精神ではなく、とにかくただ"忘れてしまうこと"に怯えている。

 毎日毎日書いている。

 前日の予定表にも書き足しているときさえある。書いて何になるかと聞かれたら、何にもならないだろう。仕事は永遠にやってくる。過去を描いてどうする。終わった仕事に"済"をつけていき、少しずつ、少しずつ仕事をこなしていく。気づけば私は"また"皆と同じになりたくて必死だった。自分と同時期に入社した人ができていることは、私にもできなければならないと常に焦っていた。できない烙印が怖かった。お前だけだよできないのと言われる妄想が頭の中をざわざわと掻き毟ってくる。

 そしてさらに自分で馬鹿げているなあと思うことがある。

 それは私が仕事のメモであるのに、人の感情や表情、描写まで残してしまうところだ。たとえば——



8/9(金)
○MTG資料作成18時までに。
○買い出し。現地確認
○15時〜打ち合わせ
○17時〜面談



 みたいなメモを事前に書いていたとする。

 まあ、終わったものを線を引いて人は消したり、済みと書いたりするのだろう。そもそもそれすらしないのかもしれない。恥ずかしながら、私は私以外の仕事の仕方をあまり知らない。言及もここではしないでほしい。

 上記内容が終わった後の私のメモ帳は、以下のようにいつも追記されている。


8/9(金)
○MTG資料作成18時までに。→済(主任の顔が怖かった。きっと〇〇さんとの案件がうまくいっていないからだ。私には関係ないのに。でもまあ、私は私の分が提出できたしいいか。明後日のプレゼンがとても不安)

○買い出し。現地確認→済(晴れてよかった。店員さんが新人だった。変にこちらがニコニコ様子を見ていても癪に障るだろうから、普通に見ていた。今日も誰かが新しい一歩を踏み出している。私は、私は。。。)

○15時〜打ち合わせ(ただ〇〇さんが怒っているだけだった。明日までにまた資料作ろう。そういえば備品減っていたしあとで発注しておこう)

○17時〜面談(思っていたことをいつも話せず終わってしまう。メモ帳に前もって書いておいても、その場の雰囲気に流されてしまう。苦しい。〇〇さんは風邪っぽかった。今度珈琲をいれて持っていってあげたら喜んでもらえるかもしれない)


 これくらい書いてしまう。

 本当に意味がないなあと思っているし、こんなことをしているから仕事は遅いし、直接的に必要な仕事の情報をこぼしてしまったりする。

 でもとにかくメモ帳に感情や余計な出来事まで書いてしまう。というよりこんなの"日記帳"だ。馬鹿馬鹿しいのに哀しくてやめられない。こんなことをやっている癖に、私は仕事ができない、と言いながら涙を流してしまう。


 遠回りをやめられないのだ。

 他にも「これあと適当にやっておいて〜」と言われるのも苦手だ。適当ができない。

「これはこうなったらこのボタンを押せばいいだけだから簡単でしょう?」と言われても、はいわかりましたとはならない。どうしてその場合このボタンを押さなければいけないのかが気になってしまう。だから私は、仕事以外の時間でそれらを調べ上げ、ひとりで納得している。滑稽だなあと自分自身に対して思いながら。

 そして極めつけに、些細な一言に傷ついてしまう。どうしてあんなことを言われてしまったのだろうと深く研究した。自分が意図せず放ってしまった言葉を猛省した。それもまたメモ帳に書き記した。書くと落ち着くのだ。そして書くと憂いがほころんでくれる。



 だがそれは仕事に何も関係がなかった。私は同じにはいつもなれなかった。敏腕で、パワフルで、世の中はこれぞ社会人だなあと思う人ばかりだ。私は相手の気持ちがいつも気になるし、自分の気持ちの整理も苦手だ。知らなくていいことも知りたくなるし、むしろそういう情報収集を好んでいる節すらある。

 結局全部無駄で、私は社会に、会社に適合できない自分に辟易としていた。だがそういえば、"功を奏した"ときもある。それはある土曜日、社内のWi-Fiが繋がらなくなってしまったときのことである。



 ・・・


 出社した直後、全社的にWi-Fiが繋がらなくなってしまった。皆使っているパソコンは当然全て使えなくなった。だが業務課の方などがシステムなどを弄って、復旧をすぐに試みてくれた。

 だが繋がることはなかった。

 他の誰も直し方がわからない。今までもネット環境が不調になったことはあったが、"そういうときはこのボタンを押せばいい"くらいの理解しかしている人が社内にいなかったのだ。

 土曜日のため、業者さんも呼べない。スマホと連動させて使えるパソコンも出てきたが、あまりにも業務に支障が出てしまっていた。私のいる会社はベンチャー企業というのもあってか、少しの変化で脆く崩れてしまうときがある。

 そんな様子を私は見ていた。

 うーん、でもなあと思っていた。

 それってつまり〇〇の状態だから、あれをそうしてああしてやればできそうだけどと内心思っていた。思っていたら、私は勝手に喋り始めていた。



「これ、私やってみていいですか?」

 色々設定を弄ったり、コードを繋ぎ直してみたり、ボタンを押したりしてみる。するとどうだ。あっという間にWi-Fiは復旧した。



「うたたび君すごい!どうしてできるの!?」


 皆驚いていた。だが私の方が驚いていた。どうして皆これを知らずに過ごしていたの?と。

 見下しなどではない。

 不安にならなかったのだろうかと思った。私はあらゆることが不安だから、仕事をしていても、"最悪のとき"を考えてしまう。しかしそれらの思考は、ほとんど日の目を浴びることなく墓場へと送られるのだ。

 Wi-Fiも同じだ。最初教わったとき、IDやらパスワードなど聞き「これで繋がるから」と言われたが、私は即座に「繋がらなくなったときはどうしたらいいですか?」と聞いた。返ってきたのは乾いた笑いだけだった。繋がらなくなるときなどないと言わんばかりの表情だった。


 そこで突っ込んで話を聞こうとしても仕方がないと私は悟った。だから勝手にひとりで調べていた、この会社のネット環境を。

 ふーんそうなんだとひとりで納得していた。勉強は面白かった。たまにネット環境に詳しい業者さんが社内に来たとき、話を聞いたりしていた。私は仕事ができないが、人と話すことの根本はとても好きであったから。識ることはとても愉しかったのだ。

 私が得ていくものは、遠回りであることも薄々わかっていた。それでも書いたり、人に聞いたり、本を読んだりして過ごしてきた。その分タイパとか、効率とか、そういう話に全然ついていけなくなってしまう。「まだ〇〇を使ってるの?」みたいな話も苦手だ。どれほどデジタル化が進んでも、私はにこにこしながら手紙を書き続ける人間だと思っている。


 Wi-Fi環境を即座に直すことができた日、私は異常なほど社内で賞賛された。そして私は、土曜日でも連絡が取れる業者さんへ連絡した。どうしてそんな人と繋がっているの?と聞かれたが、たまたま昔、メモ帳に残していただけだった。その業者さんの名前も、顔の雰囲気も、そのときの気持ちまで書いている。「困ったらこの人を頼ろう」と書いてくれていた過去の自分と目を合わせて私は微笑んでいた。


 ・・・



 私は大人になってから、誰からも真似されなくなった。追いかけてばかりだ。しかしそれは、追いかける必要のあったものだろうか。


 誰かと同じ生き物になることもできなかった。自分を特別な生き物だとして、崇め奉っているわけではない。悲観と逃走だ。そこに自己否定と、わずかな自己肯定が混ざっている。

 学生時代、はみ出しているものはよく注意を受けていた。大人になったら個性を重んじられた。でも結局、私の目に映る世界の生き物たちは、総じて"輝いている同じ生き物"であった。ほんとうに羨ましかった。


 私もその同じ生き物になりたかった。

 でも、なる必要はやっぱりないのかもしれない。私は誰かの足を引っ張ったり、迷惑をかけてしまうことがこれからもたくさんあるかもしれない。だとしても、私は私の遠回りを輝かせたい。私という生き物も肯定してやりたい。もしかしたら自分が気づいていないだけで、私は誰かの助けになっているかもしれない。私の遠回りは、会社や環境が変われば近道であったりもするかもしれない。いま遠回りと思っていた行動がまるごと仕事になる場所もあるかもしれない。

 効率よく動ける生き物も大切だ。売上を伸ばす生き物がいたり、いつでも明るい生き物がいたり、知らなくてもいいことを知っている生き物がいたり、誰かの気持ちの変化によく気づける生き物がいたり、ひどく心配性な生き物もいたりする。

 会社員であっても、フリーランスだとしても、他にも様々な世界があるだろう。それら自分らしくいられる場所を私は探し続けたり、そこで創ったりしたい。

 そして「人間」ではなく「生き物」と表現する理由は、そこにより生命力を感じるからだ。辞書通りではない、私の解釈だ。人間という括りだと、視界が狭くなってしまう気がするから。いろんな生き物がいると思ったら、怖い出来事も避けられるかもしれない。諦められるかもしれない。

 人間だと思ったら、絶対に理解しきらなければいけないとか考えてしまわないだろうか。この世には知らない、知りきれない生き物がたくさんいる。そう思うと壮大で、気にしなくてよいことを時に選別でき、相手を尊重し、自分自身を慈しんでやれないだろうか。


 私は愛を持って、自分自身を阿呆だなあと今日も想う。真似ももうしなくていいし、真似されなくてよいのだ。「普通」などという、どうせ説明しきれないものに囚われる必要もない。

 自分は同じ生き物になれなかったと嘆き、腐るのも輝きであるが、私は私という生き物に対してまた失望したり、抱きしめてやったり、輝かせてやったりしたい。

 同じ競技の中で、全員が優勝なんてできない。

 生き物の数だけ、参加人数ひとりの競技があると思えば、多少、気楽に生きられるかもしれないな。

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