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深読みヒストリア

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この国の古代史について、すでに登場している緒論を改めて紹介していきます。
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#コラム

(64)狗奴國はどんな国だったか

石見神楽「熊襲」 「邪馬壹國」がどこにあったか、と同じように、「狗奴國」も所在地が定ま…

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(63)制海権をめぐる争い

高句麗族が築いた石塁 正始八年(247)、「邪馬壹國」の使者が帯方郡役所にやってきて、南…

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(62)「邪」は巫蠱が居る場所

モンゴルのシャーマン いわゆる「邪馬台国論争」は、原文が「邪馬壹(壱)」であれば、論争…

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(60)陳寿は間違っていなかった

「邪馬台国問題」が混乱しがちなのは、現代のわたしたちにとって理解しにくい風俗や暮らしぶ…

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(59)當に会稽東冶之東に在り

宇佐神宮 下社 さて、伊都國の次の「奴國」は「東南百里」となっています。「東南」を60…

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(58)「南」は南それとも東か

口絵:混一疆理歴代国都之図 現在の地図で唐津市から三雲南小路遺跡は東北東に当たります。…

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(57)「倭人伝」の1里は63~67m

玄界灘から見た糸島半島 船と隊列の話をしたついでに、自分もやってみよう、という程度の軽い気持ちで「倭人伝」の旅程記事に挑戦してみようと思います。まずは1里は何mか、です。 帯方郡使の旅程は当然ながら帯方郡の役所からスタートします。 郡役所から狗邪韓國までは「乍南乍東」(南に行ったり東に行ったり)で「七千餘里」となっています。狗邪韓國~對海國(対馬島):朝鮮海峡、對海國~一大國(壱岐島):対馬海峡、一大國~末盧国:壱岐水道はいずれも「千餘里」です。末盧国~伊都國は

(56)帯方郡使の船と隊列

「魏志倭人伝」は帯方郡から倭地に赴いた使者の出張報告書をもとにしていると考えられていま…

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(55)景初・正始年間を想像する

伊都國の王について、「魏志」は「丗有王皆統属女王國」と記しています。これは「邪馬台国論…

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(54)「邪馬台国はなかった」説

「倭人伝」は伊都國が倭人の王都で、だからこそ「郡使往来常所駐」(帯方郡の使者が往来する…

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(53)委奴國から伊都國へ

ところで、中国王朝の官吏が「國」と呼ぶのは、城壁で囲まれた居住地と市場のことです。「國…

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行政手続きから紙とハンコを撤廃できるか(4)

行政手続きは年48.3億件ところで、1年間に「行政手続き」がどれほど行われているかを調べると…

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(52)委奴國王と親魏倭王の間

魏帝国が漢の制度を継承していたなら、卑彌呼女王が手にした「親魏倭王」印は印面2.3cm四方…

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(51)「邪馬壹國」は宮崎平野?

「倭人伝」の「邪馬壹國」はどこかーーは、日本古代史最大の謎であり、古代史ファンなら一家言あるところでしょう。いわゆる「邪馬台国論争」です。 この論争の口火を切ったのは、一般に新井白石だといわれています。徳川将軍第7代家継の正徳六年(1716)に著した『古史通或問』で邪馬壹国は奈良盆地にあった古代国家で、それが大和朝廷になった、と論じました。ただし白石はその後、九州説を唱えています。 『書紀』はオキナガタラシ姫(神功)紀三十九年条、四十年条、四十三年条に「魏志云」と倭人