(60)陳寿は間違っていなかった

060倭人

「邪馬台国問題」が混乱しがちなのは、現代のわたしたちにとって理解しにくい風俗や暮らしぶりの記事が「魏志」に散見されるためです。

その典型は道里記事を〆る「自郡至女王國萬二千餘里」に続く「男子無大小皆黥面文身」です。「男子は大と小と無く皆黥面文身す」と読みくだされています。

「無大小皆」は「大人も子供もみんな」なのか、「身分の上下を問わず」なのか、意見が分かれるところです。

「黥面文身」は顔や体に墨を入れたり、小さな傷を付けて傷跡で模様を描くこと。「顔」という漢字に入っている「彦」という文字は、「顔に墨を入れた男子」の象形と考えられています。 

倭人の男子はみんな黥面文身している、それは「夏后少康之子封於會稽斷髪文身以避蛟龍之害」(夏后少康の子、会稽に封ぜられしに、断髪文身し、もって蛟竜の害を避く)だからだ、と「魏志」は説明しています。 

夏后少康は伝説上の夏王朝第6代の帝王で、その子(庶子)が会稽の王となったとき、髪を短くし、体に模様を付けることによって蛟竜(東海に棲むとされた伝説の爬虫類)の害を避けた。つまり倭人は夏后少康の末裔で、会稽の東海にいる、というのです。 

それに続けて、陳寿は「今倭水人好沈沒捕魚蛤文身亦以厭大魚水禽後稍以為飾」(今、倭の水人、よく沈没して魚蛤を捕え、文身し、またもって大魚・水禽を厭わせしも、後やや以て飾りとなす)と記述します。その証拠に今の倭人はこうなんだよ、ほらウソじゃないでしょ? だから「計其道里當在會稽東之東」なんですよ、と言っています。

「自郡至女王國」から「今倭水人好沈沒」まで、陳寿の記述は一貫しています。

 暮らしぶりはというと、「種禾稲紵麻蠶桑緝績出細紵縑緜」(禾稲(かとう=稲)紵麻(ちょま=麻)を種(う)え、蚕桑(さんそう=蚕を飼う)緝績(しゅうせき=絹を織る)し、細紵縑緜(麻布と絹布)を出す=作る)ですから、ここは亜熱帯の景色ではありません。

また「無牛馬虎豹羊鵲」(牛・馬・虎・豹・羊・鵲(カササギ)はいない)というのも、なぜカササギが指標動物となっているのかは分かりませんが、そりゃそうだろうな、と頷けます。 

ところが、それでも陳寿は「所有無與擔耳朱崖同」(有するところ擔耳朱崖=海南島と同じで無いものはない=ほぼ同じである)と言うのです。「倭地温暖冬夏食生菜」(倭の地は温暖で、冬夏生菜を食す)はまぁ分からないではないとしても、さすがに「皆徒跣」(皆裸足である)となると首をひねりたくなってきます。 

気がつくのは、陳寿が参照した原資料は大きく2種類に大別されるーー2種類の資料が混在しているのではないか、ということです。1つは帯方郡の公文書、もう一つは呉・孫権の王宮から押収した公文書です。 

その表記を探ると、帯方郡の公文書は「倭」「倭國」「女王國」、孫権王宮の公文書は「倭地」「倭人」となっていたのではないか。「魏書」の冒頭は「倭人在帶方東南大海之中」です。陳寿は「倭人」について記述したのであって、つまり間違ってはいないのです。

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