(57)「倭人伝」の1里は63~67m

057糸島

玄界灘から見た糸島半島

船と隊列の話をしたついでに、自分もやってみよう、という程度の軽い気持ちで「倭人伝」の旅程記事に挑戦してみようと思います。まずは1里は何mか、です。

帯方郡使の旅程は当然ながら帯方郡の役所からスタートします。

郡役所から狗邪韓國までは「乍南乍東」(南に行ったり東に行ったり)で「七千餘里」となっています。狗邪韓國~對海國(対馬島):朝鮮海峡、對海國~一大國(壱岐島):対馬海峡、一大國~末盧国:壱岐水道はいずれも「千餘里」です。末盧国~伊都國は「東南陸行五百里」となっています。

「餘里」を切り下げると、帯方郡~伊都國は7000+3000+500ですから1万500里です。對海國は「方四百里」、一大國は「方三百里」とあるので、それぞれ2辺を回ったとすると350里を加算するという考え方もあるようです。そうすると帯方郡~伊都國は1万850里に補正されます。

自郡至女王國萬二千餘里」(帯方郡より女王国に至るは一万二千里)ですので、伊都國~邪馬壹国は1150~1500里というわけです。 伊都國は糸島平野に比定されています。井原鑓水遺跡、三雲南小路遺跡、平原遺跡など弥生後期を代表する埋葬遺跡が集中していますし、「伊覩」「五十迹」「怡土」といった古名が残っています。

帯方郡から伊都國まで現在の科学的な距離が分かれば、「倭人伝」の1里が算出できます。 帯方郡の役所は現在のソウル市の南、漢江河口付近に置かれていたと考えられています。役所の所在地が海辺だったのは、渤海湾を横断して山東半島に渡る航路が開けていたからでした。

ソウル市から狗邪韓国の比定地である釜山までは、現在の陸路で450kmです。釜山~博多を結んでいるフェリーを狗邪韓國~末盧國に当てはめると200kmです。末盧國を呼子町、伊都國を糸島市の三雲遺跡周辺とすると50km、唐津市から三雲遺跡は35kmです。

帯方郡から伊都國の距離は685~700kmなので、「倭人伝」の1里は63~67mです。いずれにせよ「漢代の1里は434m」と合致しません。「倭人伝」は実際より5~7倍誇張しているとされ、それは「邪馬壹国」を実際よりはるか南に所在させるための陳寿の工作と考えられてきました。

これに対して、「倭人伝」の1里は意外に正確、という指摘があります。魏は景初元年(237)、漢暦を廃し新しい暦を定めていて、併せて度量衡を改めた可能性を捨て切れません。ちなみに景初暦は五代宋(劉宋)の元嘉二十一年(444)まで使われています。

漢の距離単位は、人の1歩(現代でいう2歩)=約1.4mを基準にして50歩を1尺とし、6尺(300歩)が1里でした。魏は漢代の「里」を継承しつつ、周代の「里」(周里)を復活させて2本建てにした、というのです。

韓地と倭地に周里が残っていたのだ、という意見もありますが、大陸の中原にかかわる記述にも登場しているという指摘もあります。なぜ周里が復活したのかは分かっていません。

ともあれ、倭人伝における1里は63~67m、本稿では65mとしておきます。

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