(63)制海権をめぐる争い

063玄菟城

高句麗族が築いた石塁

正始八年(247)、「邪馬壹國」の使者が帯方郡役所にやってきて、南にある狗奴國と交戦状態に陥ったことを告た、と「倭人伝」は記録しています。

其八年太守王頎到官倭女王卑彌呼與狗奴國男王卑彌弓呼素不和遣倭載斯烏越等詣郡説相攻撃状遣塞曹掾史張政等因齎詔書黄幢拝仮難升米為檄告喩之

其の八年、太守王頎到官。倭女王卑彌呼と狗奴國男王卑彌弓呼は素より不和。倭載斯烏越等を遣はし郡に詣で、相攻撃する状を説く。塞曹掾史張政等を遣はし因って詔書・黄幢を齎し、難升米に拝仮して檄を為して之を告喩す

 緊張感が伝わってくる文章です。

正始七年(246)に前任の弓遵が韓族との戦いで死亡したため、高句麗族との戦いで成果をあげた王頎が玄菟郡から帯方郡に転任してきた年でした。そこに倭の女王が急を告げてきたという展開です。実際は新任の王頎に挨拶するために倭載斯烏越らがやってきた、そのときに「相攻撃状」を聞いた、という順番でしょう。

この部分について、「太守王頎到官」は「太守である王頎が役所に到った(着いた)」と書いてあるけれど、「王頎が着任した」とは書いていない、という指摘があります。前年まで、というより正始八年の現在も、王頎は玄菟郡の太守として、正始三年(242)から将軍毌丘倹とともに高句麗の東川王と戦っていました。「相攻撃状」は帯方郡の軍と倭人の軍が共同して高句麗・韓連合軍と戦っていた、その戦況を報告したのだ、という見立てです。狗奴國とは高句麗國を指す倭人の表現というわけです。

それはそれとして、「倭人伝」は卑彌呼女王を共立した30の国邑連合が狗奴國と交戦したとは書いていません。また「今使譯所通三十國」(今、使訳通じるところ三十国)の中に狗奴國が入っていないのですが、もう一つの奴國ーー「奴國此女王境界所盡」(奴國これ女王の境界の尽きるところ)の「奴國」ーーが狗奴國の誤記である可能性は残っています。

「素不和」とあるのも、狗奴國が卑彌呼共立の一員だったことを示しているようです。旧知の仲だった、という意味でもあるからです。

すると、ざっくり、こんなストーリーではないでしょうか。

2世紀の末、太平道(五斗米道)が倭人社会にも浸透し、「倭国乱」を誘発した。「丗有王」の伊都國をコアとする北部倭人陣営は鬼道の巫女・卑彌呼を奉斎することで狗奴國をコアとする南部倭人陣営と妥協した。

伊都國の王は卑彌呼女王の2世代前の王が曹操の祖父で会稽郡太守(会稽曹君)だった曹胤(A.D177没?)とコンタクトしたことを知っていて、魏帝国(曹氏)に接近した。伊都國陣営が卑彌呼女王を取り込んで魏との交易を独占したことに、狗奴國陣営が反発した。

対抗上、狗奴國の卑彌弓呼王は長江河口、舟山群島の倭人コロニーを通じて、呉帝国(孫氏)と連携した。とすれば、呉帝国が狗奴國陣営を後押ししていたでしょう。「相攻撃状」は倭地を二分する争いで、魏(帯方郡)として倭人を失うことは、東シナ海と渤海の制海権を失うことを意味していた。

ーーというような見立てはいかがでしょうか。

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