(53)委奴國から伊都國へ

053委奴国と伊都國

ところで、中国王朝の官吏が「國」と呼ぶのは、城壁で囲まれた居住地と市場のことです。「國」という文字に「戈」の文字が入っているのは、「戈で守るべき土地」という意味だからです。また「王」と呼ぶのは村長さんではなく、それなりの王宮があって、それなりの官僚機構と兵制が認められる場合に限ります。

「倭人伝」が記す「邪馬壹國」は、この列島に所在したことが明らかな4番目の古代王国というわけです。委奴國から倭面土國(末盧國もしくはヤマト國)への交代は、倭面土國が160人もの奴隷を楽浪郡に連れて行っていることから、武力(戦争)に依ったことが推測されます。

本稿では、A.D57年に洛陽に詣でた倭人の國を「委奴國」と表記しています。通説は『後漢書』が記す「倭奴國」の表記を正として「倭の奴國」と読み、『書紀』の「儺県」(ナのアガタ)、現在の福岡市那珂川流域に比定しています。

それはそれで一つの仮説ですけれど、書写・転写を重ねて現在に伝わっている書物と、A.D57年当時の現物(金印)を比較したとき、どちらが史料価値が高いかは一目瞭然でしょう。また印面の「委」を「倭」と読み替えるのは、無理があるように思います。というのは『書紀』における「ナ」は那か儺、万葉仮名における「ナ」は奈、名、莫、勿、那、無、汝、菜、魚、南、寧、七、難、甞、男、去であって、「奴」の文字は使われていないからです。

もう一つ、中国王朝が異族の王に下賜した印の文言は、「中国王朝名+異族の識別子+称号」で構成するのがルールとされています。だとすると、「漢委奴國王」は「漢ノ委奴國ノ王」であって「漢ノ委ノ奴國ノ王」ではありません。そして「委」の音は「ウェイ」「ヰ」であって、「ワ」の音はないのです。

ということは、「委奴」は「ワのナ」とは読めません。また「ヰヌ」と読んで「稲」に当てるのは恣意的ですし、「ヰド」と読んで伊都國につなげるのは無理があります。

「奴」を「ド」と読むのは3~6世紀の中古音で発生した「nド(ndo)」(頭のn音は唇を合わせる鼻音)だからです。つまり2字1語で「ウェイヌ(wĕi-nú)」と読み、当時、漢帝国が手を焼いていた北方の異族「匈奴:シォンヌ(xiōng-nú)」に対置する名と理解したほうが自然です。

伊都國の音は「yī-dōu」「i-dou」なので、「イドゥ」「イト」「イツ」と読むのは不自然ではありません。交易を通じて華夏人(中国古代人)と交流を重ねているうちに華夏の文字を覚え、「委奴」の意味が悪いので、音が通じる佳字に改めたのかもしれません。だとすると、伊都國は委奴國の後裔ということになってきます。

ただし「倭人伝」が伊都國に使っている文字は検討を要します。「魏志」は「ヰ」の音を表す漢字として「巳」「壹」、「ドゥ」「ト」「ツ」の音を表すなら「投」を使っています。これに対して「伊」は神の意志を伝える聖職者、治める人を意味する漢字ですし、「都」は文字通り王宮のある場所を意味します。

あれ? ちょっと待ってください。

「倭人伝」は、「伊都國」が倭人の王都だと言っているのではありませんか。

口絵:伊都国王の墓とされる井原1号墳

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