(64)狗奴國はどんな国だったか

064熊襲神楽

石見神楽「熊襲」

「邪馬壹國」がどこにあったか、と同じように、「狗奴國」も所在地が定まっていません。高句麗國だ、とする説はひとまず脇に置いて、「邪馬壹國」九州北半(筑紫平野)と仮定し、「倭人伝」にある「其南有狗奴國」をそのまま受け取ると熊本平野がぴったりです。『書紀』『古事記』に「熊襲」の地と想定されていて、「狗奴」の音(クヌ/クナ/クド)に通じます。

ただ、「倭人伝」の「南」が実際より60~50度南(30〜40度北)に傾いているのではないか、という疑いに合理性があるなら、「其南」は東南東に補正されます。筆者の仮説(というか空想)で「邪馬壹國」は伊都國の東南東100km内外のどこかです。ところがそこから東南東となると、豊後水道に落ちてしまうか、四国に渡るしかありません。

また「邪馬壹國」に至る方角を「東」(東南東)に補正し、「水行十日陸行一月」を当てはめて奈良盆地に比定すると、何となく音が似ている熊野地方に比定することができなくなります。「狗奴國」の方角だけ「倭人伝」の記述を採用する根拠がないからです。

すると奈良盆地の東(東南東)で「クヌ」または「クナ」「クド」に通じる音を持つ地名を見つけるのはなかなか難しそうです。あるいはずっと飛んで現在の群馬県・栃木県、古名「ケヌ」(毛野)があります。

ケヌの地方にはハート形土偶などが出土していて、紀元前のかなり古いころから栄えていたことがうかがえますし、大型の古墳があったりします。ただ古墳が中心ですから時代が合わないのが最大の難点です。「狗奴國」の居場所を見つけるのはなかなか難しそうです。

いずれ触れますが、本稿では「邪馬壹國」を伊都國に付随する宗教邑落と仮定しています。「其」の主体は伊都國と解されるので、その南であっても東南東であっても筑後平野、筑後川流域のどこかが狗奴國です。

『書紀』に登場する熊襲、蝦夷と同じように、「狗奴國」を構成していた人々は「人類学的な意味で弥生の倭人なのか」という議論があります。人類学的な意味での「倭人」があやふやなので、質問そのものが成立していないかもしれません。

推測すると、「弥生の倭人=一重まぶたでのっぺりした醤油顔」に対して、毛深くてソース顔+刺青をする人々だったか、という主旨でしょう。 ですが「邪馬壹國」や伊都國を構成していた人々は、どのような人類的特性を備えていたのでしょうか。それが分かっていないので狗奴國人がどうだったかは「分からない」というほかありません。

「倭人」は人類学的特性に付された識別子ではなく、北東アジア世界におけるヴァイキングの総称ですから、外形的には同類同種です。ですが伊都國は新来の支配階層、狗奴国は土着的な被支配階層の匂いがします。

呉帝国が魏帝国に対抗するため、遼東の公孫燕と連携したことはよく知られています。では倭人はどうかというと、「実力からいって、呉帝国は相手にもしなかったろう」という意見が強いのが実情です。

しかし倭人が海洋の交易を通じて東シナ海から渤海の沿岸、朝鮮半島、山東半島、遼東半島の内陸にまでコロニーを展開し、物資輸送に長けていたら、連合する価値はあったでしょう。狗奴國は公孫燕、呉帝国と連携していたに違いありません。

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