(59)當に会稽東冶之東に在り

059宇佐神宮

宇佐神宮 下社

さて、伊都國の次の「奴國」は「東南百里」となっています。「東南」を60~70度北に戻すと奴國は糸島平野中心部から東北東、距離は6~7kmということになります。

現在の地図で見ると福岡市今宿あたりになりますが、当時の縄文海進を考えると高祖越えの福岡市西区吉武あたりも候補になります。博多平野を見下ろす扇状地ですから、「有二萬餘戸」の収容能力はあるでしょう。

次は「東行至不彌國百里」となっています。「東」を補正すると真北、6~7km先というわけです。奴國も不彌國も伊都國から6~7kmしか離れていないので、博多平野全体カバーする弥生集落の集まりが形成されていたのだと思います。多少の濃淡はあっても、当時としては大都市です。

「到」と「至」の文字の違いから、「到」は使者が実際に行った場合、「至」は伝聞という榎説(伊都國から放射状道里説)に従うと福岡市西区元岡、九州大学の伊都キャンパスあたりかもしれません。奴國から直線でつながっていたなら伊都國から14km、福岡県糟屋郡宇美町がぴったりです。

不彌國の次は「南至投馬國水行二十日」です。「南」を60~70度北側に回すと東南東、船で20日ですから、日本海を行くと若狭・北陸地方まで、陸豊後水道を抜けて黒潮に乗ると紀伊半島を越えてしまいます。倭人が北東アジア世界のヴァイキングなら、あり得ない話ではありません。日本海側なら但馬、瀬戸内海を行ったのなら、ニギハヤヒが国を作った河内の日下だって候補に上がります。

「邪馬壹國」までの道里で具体性帯びているのは「自郡至女王國萬二千餘里」です。そこで単純な引き算をしてみます。

帯方郡から狗邪韓國までは7000里、狗邪韓国から伊都國までは3500里(對海國と一大國で陸上350里を要したとすれば3850里)です。残り1500里(あるいは1150里)、97.5km(あるいは75km)先に邪馬壹国があるというわけです。伊都國の南とすれば筑後平野、真東とすると宇佐市を外れることはありません。

筑後平野なら「可七萬餘戸」を収容する十分な広さがありますし、そうなると吉野ケ里遺跡が邪馬壹国かもしれません。また宇佐のあたりとしすると、7万戸は傍衆21國の戸数を合わせたもので、宇佐神宮が卑弥呼女王ゆかりの地と考えれば、それなりの説得力を持ってきます。

女王國東渡海千餘里復有國皆倭種」(女王國の東、海千餘里を渡ること復國有り、皆倭種なり)で、倭地の全体像は「參問倭地絶在海中洲島之上或絶或連周旋可五千餘里」(倭地を参問するに、海中洲島の上に絶在し、あるいは絶えあるいは連なり、周旋五千余里ばかり)でした。

韓地は「方可四千里」ですから、ここでいう「倭地」は九州島から近畿地方までを合わせたもの(12.8万km2)でしょう。「倭人伝」の地理情報は意外に正確なのです。

では「水行十日陸行一月」はどう理解すればいいかというと、これはおそらく「会稽東冶之東」に対応した道里です。具体的な所要日数ではなく、それほど遠絶の地なんだ、と強調しているように思います。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?