(56)帯方郡使の船と隊列

056三国の船

「魏志倭人伝」は帯方郡から倭地に赴いた使者の出張報告書をもとにしていると考えられています。もちろん、景初二年(237)か同三年(239)に洛陽を参詣した倭人の使者・難升米から、こと細かに聞き出していたとは思います。それはそれとして、帯方郡使が実際に出向いて見聞きした報告書に、陳寿が信を置いたのは当然です。

帯方郡使は正始元年(239)の建中校尉梯儁と、同八年(246)の塞曹掾史張政の2人です。文字面から、校尉は武官、掾史は事務官であることが推測されます。記録に残っているのはこの2回ですが、「倭人伝」の書きっぷりはもっと頻繁に使者が往来していたか、倭地に帯方郡の出張所が設けられていたことを推測させます。

のちの官制で「校」は兵200人の長とされていますので、現代に置き換えると梯儁は帯方郡駐屯軍の中隊長=佐官級、塞曹掾史の張政は帯方郡役所の課長級事務官といったところでしょうか。

ちょっと脇道に逸れますけれど、帯方郡使節団がどのような規模だったのか空想してみます。

梯儁を長とする正始元年の使節団は、倭人の遣使・帝都参詣に対応したもので、「奉詔書印綬詣倭國拜假倭王并齎詔賜金帛錦罽刀鏡采物」(詔書印綬を奉じ倭王に拜假す。併せて詔を齎して金・帛・錦・罽・刀・鏡・采物を賜ふ)という大きなミッションを負っていました。

印綬は「親魏倭王」の金印と紫綬、このほかの下賜品の内訳は、「絳地交龍錦五匹、絳地縐粟罽十張、蒨絳五十匹、紺青五十匹」「紺地句文錦三匹、細班華罽五張、白絹五十匹、金八兩、五尺刀二口、銅鏡百枚、真珠鈆丹各五十斤」というたいへんなものでした。倭使が献上したのは「男生口四人、女生口六人、班布二匹二丈」でしたから、比べものになりません。

梯儁は団長ですが、複数の副使がいたはずです。また詔書と印綬を倭王に手交する儀礼チームが随行していたでしょう。主だった官吏は輿に乗っていたのか馬で移動したのかも興味があるところです。 その世話をする下僕、部下の事務官、警護の兵卒、これだけの物を運ぶのに要した人員と船舶はいかほどだったでしょう。

参考になるのは、建安二年(208)赤壁の戦で魏の曹操軍が繰り出した「楼船」です。それは全長20m、40本の艪を備えた大型戦艦でした。呉の孫権も同じような大型船を持っていて、帆柱7本を備えた外洋船を東南アジア諸地域に派遣しています。帯方郡使節団が倭地に赴くに当たって利用したのは、その手の大型船だったでしょう。

使節団だけでなく、随行する商人がいてもおかしくありません。大量の下賜品のほか、自分たちの武器、日用品、着替え、食料なども携行したに違いなく、またのちの遣唐使節団から類推して、正使、副使の2グループが別々に行動したと思われます。

それが末盧國(唐津)の湊に着くと早速荷下ろし作業が始まり、「草木茂盛行不見前人」(草木茂盛し行くに前人を見ず)の中、道案内をする倭の役人を先頭に数百人の隊列がゆるゆると進んで行ったのでしょう。

ただ、倭人が水運と交易を生業とする北東アジアのヴァイキングだったなら、魏の下賜品は帯方郡の役人の指揮の下、末盧からさらに先の湊まで船で届けられたとも考えられます。

口絵:『三国志』の船を艤装した遊覧船(無錫市のテーマパーク「三國城」)

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