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#064 Whole Earth Catalogの裏表紙

昨年の暮れ頃、高校のサッカー部の1学年上の先輩と、同級生と、1学年下の後輩とzoomで2時間ほど話をしました。彼らは高校、中学校、小学校の教師をしています。そのうち、2人は最近まで市の職員として教育委員会みたいなところで行政の仕事をされていました。

さて、私たちの故郷に今も彼らは暮らしているのですが、「人が育つまち」と謳って、教育分野に特に力を入れている自治体です。そんな街をリードする彼らと、アメリカのネバダの矢島美容室の近くに住んでいる私との意見交換。たしか、日本時間の12月24日の午後、貴重な時間をわざわざ、私の話を聞く時間を充ててくれて、ありがとう!

さてさて、アメリカの学校の話をするだけでしたが、日常の学校生活と違っていることに、ビックリされました。

一つ目は教科ごとに飛び級が存在し、望めば、同じ学年にステイすることもできること。個人個人の能力・習熟度によって、学年を進んだり、立ち止まったりできること。
二つ目は同じ授業でも、個人個人がやっていることが違う場合があること。すべての授業ではないものの、個人の理解度によって、進むスピードや、やってることが違っていて、日本のように一人の先生から多くの生徒たちへ、という一方向の比重が強い授業スタイルではないこと。
三つ目はマグネットスクールと呼ばれる、ある特定の技能を磨く学校が小学校や中学校の時点から存在すること。例えば、理数科目に長けている子が行く学校や医療分野に興味がある子が行く学校、アートに秀でた才能を持つ子が行く学校、結構、多様な分野向けのマグネットスクールが存在すること。

他にも、生活してて、目についたところをざっくばらんに共有していたのですが、私が一番伝えたかったことは、日本の学校では、授業で失敗する経験をすることがほぼない、ということ。先生がその場にいる全員に対して、学問の内容を同じように教え、そして、問題を解いて、理解できているか確認する。そこで解答を間違えることはあっても、それは失敗ではない。単なるミスである。一か八か、トライしてみて、ダメだったということは、家庭科の調理実習くらいのことではないだろうか。日本の学校では、失敗したけど、またチャレンジしてみようよ、何度失敗したって、次、成功すればイイじゃん、って雰囲気もなければ、その機会すら与えられていないような気がする。しかし、私がこれこそが日本の課題だと思っている。

少し話を変えるが、長男はアメリカでもベースボールチームに所属している。小学校の時に、しっかりみっちり野球をやってきたので、アメリカの同学年の子たちと比べると、明らかに技術レベルが高い。こちらの子は、打席に入っても、三振するか、かっ飛ばすか、よく分からないスイングをする。でも、それでよいのだとコーチは言う。ストライクは入らないが、やたら球の速い子がいる。それでよいのだとコーチは言う。これが日米の大きな違いなのだと感じる。

失敗が前提である子と、失敗しないことが前提である子の違い。楽しんでプレーしているのは、どっちだろうか?スーパースターになるのは、どっちだろうか?

GAFAみたいな巨大企業が生まれてきたり、プロスポーツのスーパースターがわんさか生まれてくる理由の一つに、こういう土壌があることを、日本の片田舎の先生たちと熱く話しました。

片田舎だからこそ、アメリカみたいな大らかな教育が出来るのは無いだろうかね?と。東京と張り合う時代ではないよ、もっと気楽にいこうよ、と30年以上前から深い付き合いをしている彼らと、気楽に深い話が出来て楽しかった話でした。

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