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ながれる【流れる】→121日目/掌編小説

ながれる【流れる】
水の流れによって物が動かされる。
◆◆◆

夜の川面には、筆をつかって絵具を散らしたかのように、たくさんの桜の花びらが浮かんでいた。
深夜一時。川辺には夜桜を見に来た僕ら以外、誰もいない。
「あれ、乗っちゃおうか」と、彼女が指さした先を見ると、桟橋に古いボートが二艘、繋がれていた。

彼女は僕の制止も聞かずに桟橋へ向かい、重そうなロープを解きはじめる。華奢なパンプスでよろける姿を見ていられなくて、仕方なく手を貸した。
ロープを解かれたボートに、彼女がひらりとワンピースの裾を翻して飛び乗り、桟橋を手で押した。
「待ってよ。僕も乗せてよ」と、自分でも情けない声が出る。
彼女はなにも答えず微笑んで、たぽりたぽりと、重く澄んだ音をさせてオールを動かしはじめた。

慌ててもう一艘のロープを解き川に漕ぎだすと、不器用にオールを操る彼女には、すぐに追いついた。
コツンと音がして、二艘のボートがぶつかる。僕は彼女のボートの淵をつかんで、ぐっとこちらに引き寄せた。
「もう追いつかれちゃった」と、彼女は笑う。
「そりゃそうだよ。力が違うもの」そう答えると、彼女はそうだよねぇと、のんびりと言った。
「手が冷えて、うまく動かない」彼女が、こちらのボートに左手を伸ばした。
ボートを手放して彼女の冷たい手をとると、二艘のボートは僕らの繋いだ手を起点にして、それぞれに揺れた。

彼女は僕の手を離してボートに寝そべり、「泳いでいるみたいで気持ちいい」と呟いた。
「そっちに行っていい?」僕のその言葉に、彼女は返事をしない。
彼女が、真黒な夜の川に吸い込まれてしまいそうで、恐かった。「聞いてるの?」苛ついた声をあげると、彼女は気持ちよさそうに目を瞑ったまま、ただ優しく微笑んだ。

彼女の眠るボートは、ゆらりゆらりと揺れながら、桜の天野川を渡っていく。僕はそれを見失わないように、ゆっくりとオールを動かし追いかける。
桟橋が遠く見えなくなっても、僕はずっと、たゆたう彼女を追いかけていた。

お読み頂き、ありがとうございました。 読んでくれる方がいるだけで、めっちゃ嬉しいです!