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【歴史概要72】秦の政策

①秦王の政は新国家体制に相応しい称号として「皇帝」を採用して始皇帝を名乗った。封建制から郡県制となり皇帝専制体制が確立された。

②皇帝1人ですべての決裁をしていたわけではなく多くの官僚が必要となった。皇帝の補佐は丞相(行政長官)、大尉(軍事)、御士大夫(監督官)であった。丞相には法家の李斯が就いた。

③宦官という私的な補佐官もいる。始皇帝に仕えた宦官は趙高であった。始皇帝の死後に秦は趙高によって滅亡に導かれた。

④封建制から郡県制となった。群や県というのは行政区画である。統一とともに全国を36(後に48)の群に区分しその下の行政単位が県を置いた。群や県には丞相に対応する群主や県令がいたが血縁や世襲とは無縁であった。

⑤次の漢の時代に封建制が復活するが、システムそのものは20世紀にいたるまで中国の政治体制のベースとなった。

⑥この時代に儒者は法家による厳格な法治主義を批判していた。始皇帝は李斯の進言によって農家その他の実用書を除いてすべての書物を焼き捨て、批判的な儒者数逆人を穴埋めにするという暴虐政策を実行した。これが焚書坑儒である。ただ役所の書庫などには書物が保存されていた。

⑦文字・度量衡・貨幣などを統一した。文字は隷書という書体で統一した。これで中央からの命令が全国に等しく伝達されるようになった。度量衡や貨幣(半両銭)が統一され全国規模の経済活動を容易にした。

⑧始皇帝は自ら国内を巡幸するための道路として馳道を建設しそれを用いて全国をまわった。自らの墳墓を建設させて、その近くに兵馬俑を造営した。都の咸陽には阿房宮という宮殿を建てた。

⑨始皇帝の最大の土木工事は万里の長城の建設であった。モンゴル高原では匈奴が勢力を拡大させており、北方遊牧民の脅威ゆえに中国が統一されたと云われている。後に匈奴には冒頓単于が台頭し遊牧帝国を建設するに至る。

⑩遊牧民は農耕民にとって脅威であった。戦国時代から燕や魏では長城が作られていた。長城のような障害物の前では一旦馬から降りざるを得ず騎馬戦術の弱点を突ける。現代中国で観光できる長城は明の時代に建設されたものだ。

⑪大土木工事は民衆に多くの犠牲を強制した。徴用されれば逃亡できず集合日時も厳格であった。農民の不満は高まり始皇帝の死とともに農民反乱である陳勝・呉広の乱が起きた。

⑬陳勝と呉広の2人が「王侯将相いずくんぞ種あらんや」(王や諸侯、将軍、宰相となるのに決まった家柄などありはしない)と農民たちを鼓舞した事が伝説となっている。

⑭この混乱から農民出身でありながら人望を集めた漢の劉邦と名門貴族出身の楚の項羽が出てくる。

⑮反乱は秦の兵士によって鎮圧された。しかし丞相の李斯と宦官の趙高が対立して朝廷内は混乱した。この政争のなかで馬鹿という語句が生まれた。結果的に趙高が李斯を倒した。

■参考文献
『30の戦いからよむ世界史 上』 関 眞興 日本経済新聞出版社

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