見出し画像

【日本史6】室町史備忘録14

室町時代の学習を深めていきます。

本日の学習は
①1569年(永禄12年)10月ごろから義昭と信長の関係が悪化し始めた。1570年(永禄13年)には五か条の要求を突き付け義昭への不満を表明した。義昭の独断専制と過干渉が原因と考えられている。

②朝倉氏攻略のために軍勢を率いた信長は同盟者の戦国大名浅井長政に裏切られ挟み撃ちに合った。これが金ヶ崎の戦いである。

③信長に敗北した六角氏が挙兵し信長は危機的な状況であった。義昭は救援すべく出陣を意気込むが三好三人衆を中心とした反信長勢力が義昭を襲撃する。これにより義昭は救援を辞める。

④信長は浅井・朝倉氏との戦いである姉川の戦い(滋賀県長浜市)で
勝利し義昭を救援できる状態になった。

しかし本願寺や延暦寺などの寺社勢力が浅井・朝倉に加勢するようになった。これが信長包囲網である。

⑤甲斐(山梨県)の戦国大名である武田信玄が信長の同盟者である
徳川家康を攻めた。1572年(元亀3年)に信長は西上作戦を敢行した。信玄は家康領の近江国の三方ヶ原の戦い(静岡県浜松市)で
家康に勝利し、信長を含む畿内の勢力を震撼させた。

⑥信長と信玄を含む反信長勢の軍事力を鑑みて義昭は信長を裏切る決断をした。1573年(元亀4年)に義昭は信長に対し挙兵した。

信玄は西へ向かう途上で急死した。

⑦信長は京都に向かい軍事力を背景に義昭に降伏を迫り義昭は信長に降伏した。義昭は信長にいくつかの条件を提示し信長はこれを受け入れた。

⑧義昭は1573年に再び挙兵した。挙兵に応じる勢力はなく義昭は瞬く間に信長の大軍に襲われた。義昭は降伏し京都を追放される事となった。義昭の京都追放をもって室町幕府は滅亡した。

⑨京都追放後も義昭は将軍として振る舞い周囲の大名に影響を与え続けた。義昭は毛利氏を頼り上杉謙信らを巻き込んで再度信長包囲網を形成しようと画策していた。しかし1582年(天正10年)に信長が本能寺で明智光秀の襲撃に遭い自害した。

⑩豊臣秀吉が天下人としての地位を確立すると義昭の将軍としての威光は失われた。晩年は秀吉から山城国の槙島(京都府宇治市)に1万石の領地を与えられたが義昭は後継者を定めず1597年(慶長2年)に亡くなった。

■参考文献 『1冊でわかる室町時代』 大石学 河出書房新社

この記事が参加している募集

日本史がすき

学習教材(数百円)に使います。