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師弟制度は重要だが人治主義と表裏一体である

もちろん、1人で勉強する事は基本ではある。
しかし前々から論じているようにフィードバックは1人ではできない。よって他者がいる。一つの顕著な例が師弟である。

先生や生徒、教授やゼミ生、親方と見習い、師匠と師弟、スーパーバイザーとスーパーバイジーなどである。アカデミックであれスポーツであれ料理であれ確かに師弟制は有益である。

お互いが切磋琢磨し、型を覚える、守破離の形成、新旧交流、仲間との集い。伝統知を参照としながら少しずつ現状を変革していく。概ねこういう作用がある。また儒学の「勉強する」とはこういう関係交流の事を指していた。上意下達委縮関係ではない。

しかし師弟制度と人治主義は境界線が曖昧であり、形式的に師弟制度があるからそこでフィードバックが起こり、良い好循環になるとは必ずしも言えない。

師弟制度がパワハラ、モラハラ、セクハラ、体罰、虐待、組織犯罪、セクト、カルトに豹変するタイムはわずか0.05秒に過ぎない。そのぐらい杜撰なものなのである。

この手のハラスメントや閉鎖的組織犯罪を暴力や暴言やレイプだと捉える人々がいるがそれは間違いだ。それは単に結果である。ただの暴れん坊がハラッサーなわけがない。

正確には「組織内で立場濫用が慣習化され、メンバーがその環境(=因襲文化)に順応する」事がハラスメントであり閉鎖的組織犯罪の本質なのである。そしてセクトの呪文である内集団と外集団を使い分ける「秘密主義」がメンバーを鉄鎖につなぐ。

「コンプライアンスを徹底してます」「平和活動をしています」「SDGsに努めています」と反社ほど嘯くのは、業界用語で組織体質を隠すためだ。

「「お世話になった」「立場をいただいた」教祖(社長)には頭が上がらなかった。不正も伝統(=業界因襲)の内だから、仕方がなかった。」これがセクト脳である。

反社会組織の企業や宗教、学校、クラス、サークル、習い事すべてにおいて必ず残党が言うセリフがこれである。

概ねの日本人が集団主義者になれないのはセクト(=上意下達業界)に染まりやすいからだ。公益性や公平性が何かなど1度も考えたことなどないのである。

師弟制度は重要だが師弟制度を持続化させるのは人間には相当難しいのでもはやいらないんじゃないかと思う。

師弟制度や丁稚奉公はマニュアルやプロセスのみでどうにかなるものではない。師弟制度よりも人治主義を破壊する事が重要である。

学習教材(数百円)に使います。