【気まぐれエッセイ】旬であり続けたい

小学校3年生の2学期に迎えた第二反抗期を境に、私は大きく変わった。

中でも顕著だったのが、大人に憧れるようになったことだ。それまでの私は、むしろ「これ以上大きくなりませんように」と、枕に顔を埋めて毎夜お願いしていたくらいだった(何故そのスタイルだったのかは未だに謎 (笑))。そんなのは無理だと分かっていながら、「ずっとお母さんに抱っこしてほしいから」と切に願っていた当時の自分は、ちょっといじらしい。

でも理由はそれだけじゃなかったのではないかと、今は思う。子どもの私から見た大人たちは、家事や仕事に追われていつも大変そうだった。いつもちょっと疲れていて、つまらなそうで、忙しそう。でも皆私や妹にたっぷりの愛を注いでくれる。私たち子どもは、その温かい環境で、ただ寝て食べて遊びに夢中になっていれば良かった。当時の私にとって、間違いなく世界の中心は私たち子どもだったのだ。『子ども=可愛がられる存在』だと思っていた。だから、そこに居座り続けたいと思ったのかもしれない。


話しは戻って9歳の私は、世界の中心は私たち子どもではなく、大人であると思うようになった。世界で一番イケてるのは、まだまだハリと弾力のある若々しい肌を持ちながら、自立していて自分の判断で行動出来る年齢層だと、無意識的に感じ取ったのだ。その大人への憧れが強烈な自立心となり、差し伸べられた大人たちの手を、私は激怒しながら払いのけるようになった。そうやって私は10代、20代をずっと大人へ、大人へと前のめりに突っ走ってきた。子ども扱いされることを嫌い、自分は大人だと言い張って。


しかし20代を終える頃にはまた、幼い頃と同じように、年齢が上がることに対する強い不安を覚えるようになった。30代になるのがたまらなく怖かった。その恐れの根本にあるのは、「これ以上大きくなりませんように」と枕に顔を伏せてお願いしていた理由と同じだった。『若い=チヤホヤされる存在』だと思っていたからだ。


幼い頃から今に至るまで、ずっと私が真に求めていたのは『旬であること』だったのだ。ただただ大人になりたかったわけでも、ただただ若くありたいわけでもない。みんなが注目してくれて、みんなが無条件に愛してくれる、そんな存在であり続けたいと、切望してきたのだった。


だけど最近になって、ようやく分かったことがある。それは、自分の年齢や考え方が変われば、素敵に見える年代や注目する人々の年頃も変わるということ。そして誰もが確実に年をとる。だから誰かにとって旬な存在は、別の誰かにとっては興味を持てない存在でもあるのだと。現に私が今注目している著名人のほとんどが、自分と同世代か少し年上の女性だ。私と、憧れの女性たちの年の差はいつも変わらない。ただ、それぞれが年を重ねている。


そう、結局は、世界の中心は、それぞれ自分自身なのだ。それは人生を終えるときまでずっとそう。自分の世界の主役として、別の誰かを引っ張り込もうとするから心が枯れて、子どもだとか、大人だとか、若いだとか、そんな条件にすがりつきたくなってしまうのだ。


自分の世界の中心に、いつも自分を据えてさえいれば、人はいくつになってもずっと満たされていられる。誰かにとっての食べ頃じゃなくなったとき、自分を愛せていることこそが、旬な存在でい続けるための唯一の条件なのだ。誰が見過ごしても、私が私に注目し続けてあげればいい。


いつの日かもっとうんと年を重ねて、若者たちから『お年寄り』としか見られなくなったとき、何をするにも『高齢者』というプレートが付きまとうようになったとき、「年はとりたくないな」なんて視線を浴びたとき、今の私にはまだ想像も出来ないほどの充足感に包まれながら「今が旬なのに♡」と笑っていたい。


9歳の私に1つだけアドバイスするなら、そんなに人からの関心や好意、評価を求めているうちは、あなたが目指している大人には決してなれないよってこと。

幸せな時間で人生を埋め尽くしたい私にとって書くことは、不幸を無駄にしない手段の1つ。サポートしていただいたお金は、人に聞かせるほどでもない平凡で幸せなひと時を色付けするために使わせていただきます。そしてあなたのそんなひと時の一部に私の文章を使ってもらえたら、とっても嬉しいです。