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映画「人間失格」想いは言い切れ。

「人間は、恋と革命のために生まれてきた」

太宰治が著作「斜陽」の中で遺した名言。
この言い切りに、ハッとした。

人生に対する考えに、正解なんてない。
正解は人それぞれにあって、恋をしなくたっていい。
しかし、太宰が「まあ、恋をしない人生だって一理あると思うがね。」なんて言ってしまったら、この名言はおじゃんだ。
たちまち魅力がなくなる。
「恋と革命のために生きない人間なんてクソくらえ」と言ったっていいんだ。

じゃあおまえは世界の多様性を、多様な価値観を否定するのか?
恋をしない人間の価値を否定するのか?
そうじゃない。
問題は、大切なことは、自分にとっての答えを言い切ることにあるんだ。
断定し、信じ、貫くことだ。
その道を進んでいくことだ。
そこから生まれる物語を語ることだ。
それが自分の人生であると、表現していくことだ。
その世界に共感し、好意を持ってくれた人を大切にすることだ。

そうしなければ。
そうしないで、なんでもかんでも「いいね!」なんて共感し、追従していると自分がいなくなる。
あれもいいね、これもいいね、ダイバーシティだもんね!なんて。


軸がぶれっぶれだから、自分の実体の存在感が薄まっていく。
好きじゃないものに対する姿勢が曖昧だから、自分自身の立ち位置もまた曖昧になってくる。
自分が好きなものとそうじゃないもの、両者を混同して、その場しのぎで生きているうちに、顔がだんだんのっぺらぼうに見えてくる。
”アイデンティティの喪失”なんてことは、こうしたことから始まっているんじゃないか?

僕が仮に、「ジャニーズやAKB系統の音楽にも一理ある」なんて言ったものなら、これは悪意ある侮辱になりますよ。
「ある」なんて、これっぽっちも思っていないのだから。
ただ単に、体面を取り繕うだけで、嘘っぱちの、汚れた、共感のマスクとしてしか作用しない、こんなものにすらならないかもしれない。

好きなものを好きと、嫌いなものを嫌いと、自分はこう思うんだ、と明言することをどうしてそう避けるのか。
「角が立つ」と言うならば、丸いものにこそ価値があると言うのか。
僕はそうは思わないな。


世界や人生を判断する切り口、入り口は実際のところ無限にあるんだろう。
しかし、どの切り口を起点にしたところで、そこから突き詰めて行った最奥部には限られた真理がある。そう思う。

だから、自分はどの道を辿ってそこに行くのかが問題なのだ。

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